ルターは、当時のキリスト教では、権威とされていた聖アウグスティヌスの主張に異を唱えたわけですね。なぜそのようなことができたのでしょうか?
Young Man Luther 『青年ルター』p211の、下から15行目から。
ルターが、心から感じたことですが、聖パウロが真実に近いなぁ、と感じたのは、パウロがいろんな霊的な存在を、哲学的に融合する よりも、生きる上で、二律背反があるのは当たり前だと考えた時でした。すなわち、パウロの主張は、キリストは、完全に見捨てられたと感じていたし、キリストは誠実に、自ら選択して、地獄に行くつもりであった、ということです。ルターは、ここで、非常に熱のこもった言葉で、中世的な賛美の言葉とはまるで違った形で、語りました。ルターは、あらゆる被造物の中で、特別な存在であり、がしかし、ひとりびとりの中に生きている、1人の人間について語ります。その人は、あらゆる人の「中」で死んでいるし、あらゆる人の「ために」死んでくれているようです。ルターは、人が自分自身が生きていくときの苦しみに、出来るだけ向かい合わなくて済むようにさせるような聖人たちなどいらない、としたのは、確かです。
そうですよね。自分が生きている時に感じる苦しみを避けてるようでは、その苦しみを乗り越えることなどできません。キリストを信じると、その苦しみがなくなると勘違いする人がいますし、聖人たちにすがれば、苦しみがなくなると、中世の人も考えた。今の日本でも、教会や神社やパワースポットに行くのは、苦しみがなくなり、タナボタで貰いましょう、と虫の良いことがありませんか?
でも、ルターは違ったみたいですね。それは、むしろ、人生で味わう苦しみに向かい合う方向でした。その方向をルターが勧めるのは、ルター自身が、自分の苦しみから逃げようとして、結局できず、自分の苦しみと向かい合う中から、天にも昇る悦びを発見したからに他なりませんね。
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