遊びは、人間が、過去に自分の経験したことに折り合いをつけ、現在の課題や人間関係を自分でコントロールしようとする力を、人間らしく発達させるために、なくてはならないものです。勉強よりも、ましてや、今の多くの小学校がやってるようなカリキュラムを、一方通行に押し付けるようなことよりもはるかに、この遊びが大事なんですね。遊びは、子どもにとってエッセンシャルなんですね。
The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p51の10行目途中から。
大人であっても、また、過去の経験と予定のいろんな課題によって「プレイ 遊ぶ」のに、考えるという本人の側面で活動することから始めることが、大人の仕事の中で、とても大事な側面になります。しかし、それ以上に、隠し立てのない物語の中ばかりではなくて(まるで「戯曲という意味のプレイ」や作り話の中でのようですね)、実験室の中や製図版の上でも、私どもは、過去を糺して(直して)、分かち合うという、見通しの利く視点をもって、将来を発見的に見通すのです。まるで、私どものいろんな失敗から自由になり、私どもの希望を強めるかのようですね。そうする中で、私どもは遊び道具を受け止め、それで間に合わせるようにならなければならないのは、明らかです。その遊び道具が、おもちゃでも、考え方でも、天然資源でも、発明した技術でも同じことです。この遊び道具は、歴史の中の私どもの時代の、文化的、科学技術的条件に委ねられている訳ですね。
面白いでしょ。大人が真面目にやってることが、むしろ、子どもの遊びのバリエーションです。それは、大人が真面目にやってることが、うまくいった場合が、遊びになるのであって、下手をすれば、子どもの遊びにも及ばない訳ですね。
エリクソンてすごいでしょ。「私どもは、過去を糺して(直して)、分かち合うという、見通しの利く視点をもって、将来を発見的に見通すのです。まるで、私どものいろんな失敗から自由になり、私どもの希望を強めるかのようですね」。アベシンちゃんの悪魔の仲間たちは、この逆をやってる訳でしょ。人間心理を知ると、歴史と未来を、希望に満ちた物にもできるんですね。
今の日本の学校は心配でしょ。自分達がやってることは、この下手な場合が非常に多いんですからね。あれだけバカにしている、見向きもしない 子どもの遊びにも、自分達が仕事としてやってることが及ばないですからね。しかも、多くの教員はそれにも気付かない場合が、ほとんどでしょ。
それが日本の現在の危機の深刻さの一端を物語っていますね。
何故なんでしょうかねぇ?
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