能動的に受け身になる、と言われても、はてな?と感じる人もいるかしらねぇ。それは言ってみれば、「意識して聞き役に徹しよう」っと感じ。自分がいろいろ話すんじゃなくて、相手が話しやすい様に、相手を肯定しながら、聴き続ける感じ…。
とっても大事なところがまだまだ続きます。
Young Man Luther 『青年ルター』p208の下から3行目途中から。
意義深い意味が失われているのが、passivity 受け身になる、という何気ない言葉なんですね。この意義深い意味の中でも、他者を認めながら、心がささやく声に悦んで従って、「苦労を引き受ける」、Passion パッション、すなわち、キリストの十字架を生きる、という全人格的な態度がなくなっちゃってるんですね。すなわち、全人格的に受け身になること、それは、人が、じっくり考えた結果、自己を犠牲にし、自分を超越することに向かい合うことを通して、無価値なものと向かい合いながらも、能動的な立ち位置を取り戻すことなんですね。そして、人は、このようにして、救われるわけですね。これって、「自分から損するなんて、バカね」という「十字架のバカ」という叡知なんですが、心理学では謎になってることのひとつですね。
不思議でしょ。能動的に振る舞った方が幸せだと思いがち。救いもそうやって能動的に手にいれるものだと思うでしょ。でも実際は真逆なんですね。
心がささやく声に喜んで従うことは、「人が嫌がること」「損をすること」であることが多いけれども、心がささやくことに従うことが、救いに繋がるからですよね。 でも、日本語でも「損して得取れ」という言葉もありますでしょ。そして「徳は得なり」もありますしね。
損することを意識的にしていくことの中に、救いがある、ってわけですね。
あなたもどうぞ、お試しあれ!
でも、「救い」ってなんだっけ?
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