アインシュタインの相対性理論について、私にはよく分かりませんが、対極にあるものの相関関係を導き出した理論なのでしょう。それはイメージとの遊びを通じて、対極にあるものを結びつけたのですから、アインシュタインは天才なのでしょう。でも、私どもにとっても、遊びは物事を結びつける力が、本当にあるのでしょうか?
このように、アインシュタインの相対性理論の歴史だけではなくて、文化的な、あるいは、政治的でさえある、相対性理論の歴史は、別の角度からも、私どもの関心を引き付けます。もし、相対性が理論として、宇宙に対する新しい見方の中心にあるとするならば、その職人芸を感嘆して肯定できるのは、理論と方法論が分かる少数の人達だけ、ということになるでしょうけれども、専門家の言うことを信じるしか選択肢のない多くの人々にとっては、1つのあいまいな、世界に対する見方になることでしょう。たとえ、それが、これまで受け入れていた、世界に対する見方を、堅く見通していたことに対して、動揺されるものだったとしても、です。公式のドイツ国家科学者協会が、相対性理論を、「ユダヤ人の1つの見方である」と呼び、アインシュタインの心を「悪魔のような」と非難したことを笑い飛ばすべきではありません。なぜならば、(ナチと)共同路線ではない、ドイツにいた科学者でさえも、アインシュタインの見方に対して、「古典物理学」すべてに反するから、事実において「ありえない」と判断したばかりか、意図においては「忌まわしい」(abscheulich ドイツ語で「忌まわしい」)と見なしていたのですから。アインシュタインのこの世での表情(彼の眼差しは、実際、直観 anschauung 満ち満ちていました)が、その後で半神のような立場であることは、彼の理論が最終的には証明されたと言うだけでは、説明するのに十分ではまったくない、のです。現に、私がお示ししたいと願うのは、今日でさえ、殊に社会科学においては、相対的視点から考えることに対して、抵抗が広くみられる、ということです。もしも、フロイトが、彼自身意識を支配するものに疑問を抱くことによって、人間にもたらしたトラウマを、物理的世界で中心である立場から、地球を排したコペルニクスのトラウマになぞらえるならば、また、ダーウィンが、被造物の世界で、人間が独自の、選別された立場にないことを証明したことになぞらえるならば、フロイトは、人間の心の平安を乱した人の一人に、アインシュタインもきっと含めることでしょうね。
新しい見方に対しては、非常に抵抗が強いのですね。ですから、天才は理解されないどころか、非難されることが多いのでしょう。アインシュタインも、コペルニクス、ダーウィン、フロイトのような天才と同様、多くの人々から、ひどく非難されていたことが紹介されています。
それでも、アインシュタインが、半神の様な、穏やかな、透き通った直観に満ち溢れた表情をしていたというのは、なぜなんでしょう? 最近、疑問が絶えませんね。
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