矛盾律は、≪超越≫と結びつくものらしい。
p73下から7行目から。
その反対が、西洋思想史では、真実です。人が究極的な真実を正義の思想に見出したいと願って以来、主たる強調点は思想にありました。もっとも、正しい生き方も大事だと考えられてはいました。宗教が発達する中で、この考えが、ドグマ、ドグマを創り出すための果てしない議論、「信じないもの」や異端に対する不寛容をもらたしました。さらには、「神を信じること」が、主たる宗教的態度の目的として、強調されることになりました。もちろん、このように申し上げたからと言って、正しく生きるべきだという概念がなかった、と申し上げているのではありません。しかし、そうではあっても、神を信じる人は、イキイキ、ピチピチとした神を信頼しているのじゃなくても、神を実際に生きているけれども、神を「信じる」ものではないとされた人よりも、自分の方がはるかに優れていると感じることになりました。
ここにエリクソンの言う儀式主義が登場します。精神が死んで、文字だけ残る態度です。そうすると、ドグマを教条主義的に、形ばかり信じても、イキイキ、ピチピチした神は知らない人が、ドグマには距離を取ってはいても、イキイキ、ピチピチした神を実際に生きている、「本当に信頼するもの」(真の信仰者)よりも、優れているという、バカげた思い上がりが生まれてしまいます。
それはエリクソンが正確に記している通り、「信頼」がすでに死に去った、偶像崇拝の登場です。
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