相手の人のことが分かるには、客観的に知るだけでは全く足りません。相手と繋がっていくこと、つまり、やり取りする関係になる、≪真の関係≫になるっていうことがあって初めて、相手の人の気持ちが 伝わってきて分かるんです。
p29の最後から。
人を知る、という問題と、神様を知る、という宗教の問題は似ています。伝統的な西洋神学では、考えることによって、神様を知ろうとする試みは、神様「について」あれこち述べることです。それは、私は考えることによって神様を知ることができる、ということを前提にしています。神秘主義では、それは、一神教の必然的結果ですが(これについては後ほど触れます)、考えることによっては神を知ろうとすることは諦めて、その代わりに、神様と一体となる経験が入れ替わります。神様と一体になれば、神様「について」知る余地も、その必要も全くありません。
人のことを知ることと、一体になり繋がって分かることはどう違うのか?
今日のフロムが教えてくれているように、「知る」は考えることによって、手に入れるものです。本を読んだり、観察したりして、あれこれ考えて、知っていくわけですね。その「知る」対象は、主として客観的な知識、データです。
それに対して「わかる」って何なんでしょうか? それは、「stand in 相手の身になる」ことで分かるものなんです。これはフロムが少し前に教えてくれたことです。「真の関係は「相手の身になる」ことであって、「相手を好きになる」ことじゃ、ありません」(5月19日「くれない族」、あるいは、≪与える恵み≫) 。
ですから、「わかる」というは、相手の人の気持ち、喜びや悲しみ、つらさややりがい、不満や満足など、主観的な部分、主観的データです。普通、学問の世界では、捨象されます。無視されます。ないものとして扱われます。
客観的データがいらないんじゃありません。むしろ必要です。肝心なのは、客観的データを得ただけでは、不十分だということです。だって、それじゃあ、相手の気持ちは分かりませんでしょ? 繋がって、「相手の身になる」という想像力、共感力、≪真の関係≫をやる “身体“ が、「わかる」ためにはどうしても必要です。
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