#世の中に合わせた私 と #神様 #ビョーキのニッポンインターメッツォ: エリクソンの叡智: 悲しい自分 バラバラな自分と、1つにまとめる力 慈しみ深い神 「二王国説」のあいまいさの故に、救いまであいま......
「発達トラウマ障害」Enpedia と
発達トラウマ障害を英語で・英訳 ‐ 英和辞典・和英辞典 Weblio辞典
をご参照ください。
昨日の続きです。
Young Man Luther 『青年ルター』p.217,下から2行目途中から。5訂版。
ルターが強調したのは,スピリットがいまここにいてくださる,ということですし,初めからいつも,立って=復活していなくてはならないことが,聖書の神様を信頼する信頼の,1つの行動計画であるばかりではなくて,精神分析が「強い自我」と呼ぶ心の状態を司っている,時間と空間に対する最高の態度に似ていますよ,ということです。自分にとって,自分の過去は変えられないものではありませんから,迫りくる悲しく運命になりそうなものとして経験するばかりのものじゃぁ,ありませんよ。むしろ,過去は,いまここを最高に生きる生き方の一部になります。今ここを最高に生きる生き方は,過去を,忘れたり,書き換えたり,理想化することで,自分の過去を,今ここを最高に生きる生き方にピッタリ合わせるのにビッタリな善い方法を活用します。でも,知らないうちに,人をだましたり,わざと悪いことをするわけではありませんよ。自分は,過去の敗北や失敗を,(訳注:聖なる諦めとして)諦めて,将来できそうもないことを自分に課すこともなくなります。自分は,いまここで陽気で楽しい気分を楽しむものですし,様々な迷いや様々な思い煩いに苦しむことはありませんからね,という思い全てが,一番当てにならないということを防いでくれます。それは,一番容易な,一続きになっている経験は,そういえば,いまここが1つも傷がないくらいに最高だ,ということと,瓜二つだね,と思い出すからです。ですから,全うな人にとって,毎日は,聖書の神様と一心同体になること(訳注:と,その驚きと感激)の連続に自ずからなります。ですから,全うな大人は,死が怖くなります(フロイトさんも熱心に指摘してますでしょ)。まっとうな大人は,死に囚われませんから。むしろ,全うな大人は,生きているのに死んでいるのが嫌なんです。生きているのに死んでいるとは,悪い良心,自分勝手に自分が願う願い,現実(訳注:身勝手な組織の都合)に振り回されることです。逆に,悪い良心,身勝手に自分が願う願い,現実(訳注:身勝手な組織の都合)に,日々繰り返し勝る生き方は,全うな大人にとっては,天にも昇る思いですから,全うな大人は日々自分の人生を始めます。
… ルターの神学的な見直しは,1つの心の真実を示しています。つまり,自分は「行いの中」でも,「思いの中」でも,強くなれる,ということです。つまり,強くなった自分は,自分勝手に願う願いの力の圧倒的な力も,悪い良心の圧倒的な力も,受け止めることができるということです。ただし,そのためには,強くなった自分は,ルターの言葉では「神の御手の働き」を豊かにしなくてはなりませんね。つまり,「神の御手の働き」が豊かになる,とは,務めを果たすことが,相手を自分のように大切にすることとピッタリと一致する,ということです。務めを果たすことが,相手を省みて自分のように大切にすることとピッタリと一致する時だけ,私どもが聖書の神様と一心同体になることが,なんて素晴らしいんでしょう と腑に落ちてわかりますし,聖書の神様と一心同体になることが,誰にも奪うことができない,不動なものにもなります。務めを果たすことが,相手を省みて,自分のように大切にすることとピッタリと一致すれば,(訳注:いつも聖書の神様から内的に促されますから)聖書の神様という第三者の判断にハッキリと従うことが,今ここを最高に生きる生き方になりますし,受け身になることをハッキリ示すことが,相手が能動的にこの世を生きるために,いつも新たなエネルギーをプレゼントすることになります。
キリスト教のエッセンスそのもの。
なんて素晴らしいでしょう,内的促しに従う生き方は。
相手が能動的に自律的に生きるためにいつも,やる気・元気・心のエネルギー・心の泉をプレゼントできるのですから。
あなたもいかが?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます