エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ウソとフリ マックス・ウェーバーを彷彿させるもの

2013-05-22 02:10:34 | エリクソンの発達臨床心理
 大人になって、あんなに楽しかった遊びを、つまらないものと見なすようになると、その人の人生もますますつまらないものになる。エリクソンは実に面白いです。
 今日は、遊びの嘘(ウソ)[実際は違うのに言葉だけ装うこと]と振り(フリ)[実際は違うのに見た目だけ装うこと]です。





 しかしながら、「遊び」という呼び名は、ウソとフリにも、使われます。ウソとフリは、現実を乗り越えるのではなく、否定します。ここで私は、私どもの便利な文明社会に存在する、2つの相入れない傾向を取り上げてみたいと思います。すなわち、一つは、新しく、しかも、広く行き渡った傾向で、楽しいふりを装ったり、時にはお酒や薬の助けを借りて、様々な役割を(たとえば、恋人「ごっこ」や、人間関係という名の「ゲーム」で)装ったりすることですが、たいていの人が情緒的に応じられないくらい、いろいろな要求をしてくる傾向なのです。もう一つは、大人たちが「役を演じ」ようとするぞっとするほどの決心があります。つまり、まったく見返りがないのに、避け難い現実と思われることから強いられた配役の中で、自分たちの立場を演じる、というぞっとするほどの決心です。




 遊びの否定的側面が取り上げられます。楽しいふりをしてはしゃぐことと、立場上やむを得ないと思われる、状況から強いられた役回りを演じることです。これは、遊びと仕事をする現代人(特に、日本人)の姿、と言えるでしょう。ここのところはマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の最後の件「精神なき専門人、心情なき享楽人」を彷彿とさせるところです。エリクソンは、いずれも、「遊び」に分類します。しかし、それだけではありません。この「遊び」であるウソとフリを、人生をつまらないもの、楽しみも喜びもないものに変える特効薬=毒と見なしている、と思われます。
 今日はここで失礼します。
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