人を大事にできる人は、自己愛から卒業して、信頼が豊かになった人だけなんですね。それ以外は、大事にするフリをしているだけ。
p112第3パラグラフ。
信頼とは何でしょうか? 信頼とは、神様を信頼することなんでしょうか、それとも、宗教的ドクマを信頼することなんでしょうか? 信頼は、理性や合理的思考の反対なんでしょうか、信頼は理性や合理的思考とかけ離れているんでしょうか? 信頼という課題を理解しようとする時でさえ、合理的信念と、不合理的信念を区別しなくちゃぁ、いけません。不合理的信念によって、私は、不合理的権威に従属することに基づく信念(1人の人の信念、1つの考えの信念)が分かります。反対に、合理的信念は、何某かのことを信頼することが主じゃぁなくて、私どもの確信が確かで堅固なことなんですね。信頼とは、特別な信念だと言うよりは、全人格に漲る香なんですよね。
フロムもさすがですね。信頼とは、何かを信頼していることじゃぁない。確信がもらたす人格の香なんですね。
これを大江健三郎さんは、ディーセンシー decency気品、ないしは、ハビット・オブ・ビィーイング the habit of being 人生の習慣と呼んでいます。同じことです。
私はこの確信がもたらす「人格の香り」と言ってまず思い出すのは、野村實先生。物静かで、いつも笑みをたたえているのに、必要な時には短くズバッと核心を突いた言葉をおっしゃる。温もりと厳しさが同居している感じ。でもそれだけじゃぁ、とても言い尽くせない心和み、惹きつけられる感じ。
また、関根正雄先生。「学識豊か」などと言った月並みな言葉じゃぁ、とても言い尽くせない業績があるのに、偉そうなそぶりは微塵もない。若者の話にも謙虚に耳を傾けてくださるのが、ハッキリわかる。偉大さと謙虚さが同居している感じ。でもそれだけじゃぁ、とても言い尽くせない、お近づきになって本物を教えていただきたい感じ。
お二人とも、内村鑑三から、「単独之幸福」を学ばれたに違いありませんよね。
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