子どもに「正しいこと」を教えることは、正しいことではありません。こう申し上げると、「この人何言ってるだろう」と思われる向きがおられるかもしれませんね。でもピィーンときた方もおられるかもしれません。
「正しいこと」と申し上げても、別に「科学的真理を子どもに教えるな」などと申し上げているのじゃぁ、もちろんない。これは主として、人格的真理に関わることなんですね。
最近読んだ中学生の新聞投書に、おおよそ次のような趣旨のことが書いてありました。「道徳の授業で、人間の美徳みたいなテーマで教員が話をするのだけれども、そんなことは教えられずとも、たいていは分かっている内容です。しかも、教員自身もできないようなことを、生徒ばかりに押し付けるな」という訳です。至極まっとうな投書だなぁと感心しました。こう感じたのは、私も同様な感触を道徳の授業に感じていたからかもしれませんね。
でもね、それだけじゃぁ、ありませんね。先日こんなことがありました。ある学校の校長が、子どもの行事に参加した後のあいさつで、「さっきから土ばっかり触っている子どもが何人かいましたけれども、人が話をしている時には、顔を上げて、話を聴いてください」と言うんですね。私はここに何を感じたか。それは、こういうことです。「この人は、自分の自信のなさを、子どもに正しいことを強要することで補償してんなぁ」。
教員、福祉従事者、医者その他の医療従事者、臨床心理士などなど、ヒューマンサービスを生業にする仕事には、マザーテレサや野村實先生のような、人格の香芳しい方もおられます。つまり、信頼が充実してる人です。しかし、ヒューマンサービスに来る、少なくなす割合の人が、自信のない人たちです。すなわち、信頼が脆弱な人たち。この人たちは、人を大事にすることなどできません。フロムが言っている通りなんですね。でも、人を大事にしているように見える。そう、実際は、人を大事にしているフリをしてるだけ。
自信のない人、すなわち、信頼が弱い人には、「弱い立場」の人が「必要」です。なぜなら、自信のない人は、「弱い立場」の人を「下」に従えて、「正しいこと」を強制することで、自分の自信のなさを補うことができるからです。ここにこそ、学校でよく見る、見てられない、感情的で、強制的な「教育的指導」と「正しいことを教える」ことが生じる、心理的カラクリがあるんですね。
そんなことを何百回言っても、子どもたちには全く届かないんですけれども、それさえお気づきでない。内省が足りないんですね。
私どもは、なるべく「正しいことを教えること」は止めにして、子どもたちが自分の力で「正しいことができる」ように、陽気で楽しいことを子どもと一緒にやっていきましょうね。
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