暴力は、相手を傷つけるからいけないですが、自分の感覚を鈍化させるから、余計に避けなくっちゃぁね。
p357下から5行目途中から。
ここで、フロイトが人間らしい超自我と呼んだものが、大人からの物理的な暴力だけではなくて、大人から正しいことを押し付けられることによって、強められてしまいます。かたや、大人になれば、その人間らしい超自我が、非常に抑圧的になっちゃいますから、自分が嫌いな自分を他者の中に見出しい悪をでっちあげたものに対して、超自我の暴力を差し向けることによって、自分の自尊心を維持しようとするんですね。こうなっちゃえば、私が全く非人間的な「人間を上下2つに分けるウソ」から生まれた「下劣な人間」と、他者の集団全体を呼ぶことになります。それは、「下劣な人間」である他者の集団を皆殺し(根扱ぎ)にすることが、神への奉仕になってしまいます。
エリクソンは、ナチスを体験し、あの無慈悲な、ケダモノのような、人殺しを目の当たりにしたはずです。また、大戦後その記録を、映像で、文書で、目にしたことでしょう。そして、感じ、考えたことでしょう。念仏を唱えなくても、詩人のような眼を持っていたエリクソンのこと、その人殺しの事態を、その非人間的な事態を、鋭く感じ、心痛めていたことは、間違いありません。
エリクソンは、実に人の心を見透かしている人なんですね。
スドー・スピーシーズ。別に “須藤さん“ のことではないんですね。これは、私が「人間を上下2つに分けるウソ」と訳しているもともとの言葉、pseudo-species。そして、これは、あらゆる意地悪、あらゆる「教育的指導」、あらゆる虐め、あらゆるジェノサイド、あらゆる喧嘩、あらゆる戦争の背景に、間違いなく隠れてる心の構えなんです。しかも、これは「正義」や「神」まで持ち出して、その名のもとの行われる、人間が侵す最悪の悪行。それは、文字通り、相手の、他者の命を奪う場合もあれば、結局同じことですが、相手の、他者の「自分自身」を奪い去る悪行でもありえます。
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