#慧眼 と #ピッタリくっつく #誤解と理解
#キリストの唯一の約束 を実現する #日常生活を礼拝にする心理学 #命の力 #ウソのない英知 #子どもの心が育つとき #陽気で楽しい+#生きた習慣+#倫理を理性的......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 ,第2章第3節「毎日礼拝」の件が終了。
第4節「毎日礼拝の復権」も、昨日終了。
今朝は,p.122の,第2パラグラフから。
中垣に関する様々な見立て(壁にかかったいくつかの風景)
私がこの本の初めに,1人の子どもの積み木遊び(歓び合いセラピー)と,いくつかの遊び理論と,を取り上げて,最初に出した本(訳注:『子どもと仲間たち』)で、境がハッキリしている「小さな自分の世界」に人が投影する唯一のモデルは,遊びの舞台の遊びだと申し上げた結論を,少しも変える必要がありません、という結論に達したのであります。その「小さな自分の世界」は,自分をグルっと囲う目には見えない壁にかかる数々の心のスクリーンを配置することです。この心のスクリーンこそ,神意を目に見える物語にしてくれるものです。子どもの遊びの中に,私ども夫婦は,聖書の神様が創造する創造の夢幻の設計図を見付けました。その創造の夢幻の設計図は,のちのち,結界,「対等な関係」(目に見える形に広げるのは,大切なことを一層ハッキリと理解するするために、広げてみる訳です)、舞台,あるいは,青写真を使って,進化にまつわる,歴史にまつわる,拵えることにまつわる,体面にまつわる発達を,イメージして,そのイメージを出来事にするキリストに首根っこを掴まれるためです。しかし,さらにご指摘したいのは,あの恐怖、不安,恐れです。あの恐怖、不安,恐れは,人間の大小にかかわらず,須らく人間をてんてこ舞いにします。人間が誰でもてんてこ舞いになるのは,待ちに待った聖書の神様からの息吹が静かに囁いてくれたおかけで心からの自由にされた、その自由が,目に見える敵と目には見えない敵が大小の人間ひとりびとりに課してくる,「それはダメでしょ」と心の中で叫ぶ禁止の号令,自分の周りをグルっと巡っている,眼には見えない中垣,押し付けられた生き方,のため息の根を止められた,と気付く時でしょう。いのちの結界で私がお示しできる心は,人って敵が誰も居ないと,敵をでっち上げることが多いのは,自分が新しい人になるための心からの自由を頂く結界を作るためである(訳注:のであって、敵をやっつけるためじゃぁない)、という事です。
1つの視座だけが本当の自分を育てることは,日々のこまごました些事を礼拝にすることと(訳注:必ず)音色が響き合っています。日々のこまごました些事を礼拝にすることは、人とする一番些細なやり取りから,人を育むことを礼拝で一緒に行うことまで,いろいろですが,全てに言えることは,「これこそ,私等の物の見方,物の言い方,物のやり方です、それは人の道です」という事です。
毎日礼拝があって,初めて人の道を人は体得底で身に着けることが出来ます。
毎日礼拝がありませんと,たとえ週末に教会やお御堂に行っても,人の道は体得できません,できるのは人の道のついての浅はかな知識くらいでしょう。
半年ほど前に亡くなられた宮城まり子さん。本物のキリスト者であったけれども,早く亡くなられたお母さんとの間に合言葉があったと,先日やっていた「あの人の会いたい 宮城まり子」で,宮城まり子さんが言っていました。その合言葉は
「優しいことは強いのよ」
だったそうです。
人の道は,生きるはキリストです。それは同時に,「優しいことは強いのよ」と心底から言える生き方です。
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