人と人の強さが繋がる時、それは静かだけれども、圧倒的な悦びがありますよ。それはもう、ヌミノースだと言ってもいいものですよ。あなたも是非体験してみてください。それは、教育者ではなくなった教育公務員などのお役人がよくやる、ズルサとズルサが繋がった時の、みじめな「安心感」なんぞとは、比べ物になりません。
p232下から8行目途中から。
も一つ提案を、発達上の提案や、一般的な提案、それから、≪やり取り≫の提案に、付け加えなくちゃなりませんね。それは、「活性化させる」という言葉によって表されますし、私なら、それを、「悦んでする」と呼びます。それは、聖フランシスコの祈りに、尊い形で言い表されていると思います。すなわち、「/慰められるよりも慰め/ることを/ 理解されるよりも理解することを/ 人から大事にされるよりも人を大事にすることを/ 求めるようにしてください。/ なぜならば、与えることこそ、いただくことだからです」。このように、人を大事にすることに率先して関わることは、もちろん、「あなたの身近な人たちを大事にしなさい」という聖書の戒めに含まれています。こういった言葉の中に、1つの心理学的な真理があることが分かると私は思います。すなわち、その真理とは、要求がましい態度の人やら、依存的な態度の人やらに出会う人じゃなくて、(意識的であれ、無意識裡にであれ)悦んで与える態度の人に出会えた人だけが、その与えられたものを、真に受け取ることができる、ということですね。
実によく臨床を知っている人ですね。さすがはエリクソンですね。悦んで与えてくれる時だけ、その与えてくれたものを人は本当に貰うことができるんですね。
たとえば、時間。自分の時間を与えることは、自分の命を分かち与える、命を使うことです。それを「使命」といいます。時間を喜んで与えた時だけ、それを貰った子どもは、時間を、命を受け取ることができます。時間を与えること、命を与える道は、唯一、子どもを肯定することができる道です。
でもね、「忙しい時間を割いてんだから…」なんぞと感じながら、時間を与えるとしたら? それは、時間を、命を与えたことになりません。ですから、子どもを肯定することにも、残念ながら、なりませんよね。ここでしていることは、「時間を、命を、しぶしぶ与えなくっちゃならないほど、あんたはつまんない存在です」ということなんですね。時間を割いてこれだから、もったいない。
ですから、子どもファーストで生きましょう。「後でね」なんぞとは言わない。
私どもは、悦んで自分の時間を与えるもので、生きましょう。
聖フランシスコの祈りに合わせれば、こうなるでしょうか?
「主よ、時間を貰うものよりも、時間を与えるものにしてください。/ 命を貰うよりも、命を与えるものにしてください。/ 与えることこそが、あなたの恵みそのものなのですから」
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