今日のブログで「『いたわり』、『人の痛みを感じること』、『優しさ』を訓練を通して身に付けることが大事だ」と司馬遼太郎さんが言っていたことを記しました。それをここで考えてみたいと思います。
人間は、この3つを生まれながら、持っているようで、持ってないんですね。司馬遼太郎さんはこの3つは「本能ではない」と言うんです。なぜなら、この3つは基本的にアクションだから。「人の痛みを感じ」て何もしないのは、この場合、「人の痛みを感じること」にはならないからです。ですから、単に「人の痛みを感じる」だけなら、何の訓練もせずとも、生まれながらに持ちあわせている資質です。いや、多くの人は、その意味での「人の痛みを感じる」資質を、実際持ち合わせています。
「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」は、司馬遼太郎さんは「人としての心構え」だと言います。そして、その「心構え」を身に付けるには、訓練が必要です。
「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」はどうすれば、身に付くかを考えます。それは、自分を見つめること、内省ですね。自分が苦労したこと、苦しんだこと、嫌だなと感じていたこと、から目をそらさないで、その中にある「大事なこと」を汲み取ること、でしょう。でもね、なるべく、苦労や苦しみや嫌な目に合わないように、人ってするでしょう。そのために、日本人は多数派や権力に自分も与すること、少なくとも、多数派や権力に異を唱えないこと、を処世術にしているわけですね。それがコンフォーミズム、同調主義でしたね。同調主義では、少数派や立場の弱い人を、「いたわる」ことも、「人の痛みを感じること」も、「優しく」することだって、出来ませんでしょ。
同調圧力に負けないだけの「私」を確立することなんですね。「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」は、「私」、個人を確立することを通して、身に付くことなんですね。「私」、個人を確立するためには、訓練が必要でしょ。そして、その訓練のためには、その相手になってくれる大人、すなわち、遊び仲間、カウンター・プレイヤーが必要ですね。
私ども大人は、「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」を子どもが身に付けるために、子どもに対して、「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」をもって接することが必要なんですね。言葉を変えて申し上げれば、「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」をもって接することは、子どもに対して、「いたわり」、「人の痛みを感じること」、「優しさ」でその子どもに接するような、自分の時間をプレゼントすることなんですよね。
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