今朝は、私どもが真に主体的に生きるために、もしかしたら、不可欠なものの見方を示しているのかもしれません。なんせ、心理学は、絶対的な心理を言うことは1つしかなく、後は、相対的な視点の提示、こんな見方もありますよ、と示すものだからです。
ユング著作第9巻の1(Collected Works of C.G. Jung, Volume 9 (Part 1): Archetypes and the Collective Unconscious)『諸元型(いくつかの最初の型)と集合的無意識』pp.3-41、Archetypes of the Collective Unconscious 「集合的無意識の諸元型」から。p.27から。
皆さんが、人事を尽くしたとおっしゃるのなら、知ってさえいれば、出来ることもあったでしょう。しかし、経験から判断できること等、ないに等しいものですよ。ですから、無意識が働く余地がまだ大いにあるわけですね。…
…アニマは、言葉の正しい意味で、出来事を生み出す原因なんですね。人がアニマをこしらえることなどできません。正反対に、アニマは、その人の気持ち、態度、一時の思い、何でも心の中で自発的に生じるものの中にある、自明な要素です。…
…アニマは人生に混沌とした衝動をもたらすものかもしれませんが、アニマには不可思議な意味があり、秘密の知識、あるいは、隠れた叡智がありますもんね。それは理屈に合わない事では全くありません。…秘密の知識、あるいは、隠れた叡智がハッキリと現実になるのは、真摯にアニマに取り組む人だけですよね。アニマに真摯に取り組むという課題ができた時にだけ、人の人生を残忍に弄ぶことの背後に、隠れた目的のようなものがあり、何のために生きるのかということに対する優れた知見を示してくれていることが、次第次第に分かってくるのです。それは、思いもしないこと、一番怖い「なんでこんな目に遭わなくちゃならないの?」と思うことにこそ、最深欲求を満たす意味がある、ということです。
これが、あらゆるサイコセラピーの目的ですし、真の宗教家の目的です。あるいは、人生の目的なのかもしれませんよ。
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