聖書の言葉: 神様を信頼すると、なぜ、山も動くのか?大人になれない、ニッポン人 真理はあなた方を自由にしてくれます 子どもって、不思議な存在ですね p225の第2パラグラフ。 ...>......
今宵は,The Galilean saying and the sense of "I" 「ガリラヤのイエス・キリストの言い伝えと≪私≫が生きる感性」The Yale Review. April 1981 p346の5行目途中から。翻訳し直し。
ぺリンが,イエスの言葉が実際に言った本物である点で明確に述べ,実際に「イエスの言い伝えの中で,一番革命的な言葉だ」,「ラビのユダヤ教にも,分派的ユダヤ教にも,並行記事がまったくありません」とハッキリと言っています。イエスの言葉は,善悪を分ける非常に根深い区別を無効にしているように思えます。善悪を区別することから,いろんな恐怖症や脅迫的な完璧主義が,日々の,週ごとの,ウソの形ばかりの関係の中で生み出されてしまいます。善悪を区別は,当時は,おそらく,ファリサイ派の人たちが,内輪で,古代ギリシアの風習がユダヤ人達に入ってきたことを軽蔑していたことから,助長されたのだと思われます。もちろん,それまでに,イエスは,非常識な日々の人生の習慣をハッキリ示しただけではなくて,誰と一緒に食事をするのか選ぶ,人類みな兄弟を実践する自由をハッキリ示しました。しかし,人間の「心」を心の大釜と呼ぶ時,イエスが明確に指摘したのは,受け身で苦しむ心の座でした。受け身で苦しむ心の座から,たくさんの誘惑が生じ,そのたくさんの誘惑によって,≪私≫の感性が痛ましいほど萎えてしまい,≪私≫の感性が,無秩序,イド あれ,になってしまうんです。しかし,その≪私≫が,イエスがここで求めている(訳注:善悪の区別はないんだという)あの根源的な気付きによってのみ,たくさんの誘惑になんとか対処することができるようになります。
ここはライフサイクル心理学の中心課題ですし,エリクソンの神髄そのものです。
心の中のものは,陽気で楽しく,しかも,本気になれば,すべて善。だから,思い通りに自由にすることができるんです。
イキイキ,ピチピチ,陽気で楽しく本気で生きるための,秘訣です。
人生の秘密です。
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