今日は、私のギリシア語の先生、武藤陽一先生の言葉を学びます。目黒区中根にある、今井館聖書講堂で19年前に語られた「聖書は語る」という講座で語られた言葉から(『聖書は語る 今井館日曜聖書講義 第2号』から)。武藤陽一先生は、内村鑑三の最晩年の弟子のお一人、山本泰次郎のお弟子で、その後、埼玉県で、50年以上「テコア聖書集会」を主催されてきました。また、青山大学で講師を長い間されました。都立立川高校が、まだ「府立2中」と呼ばれたときの卒業生ですから、立校の大先輩でもあります。
パウロの礼拝観をもって言えば、「自分の身体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてさざげなさぃ。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ一二・一)ということでしょう。神を礼拝するのに一定の日時と、一定の場所と、一定の方式があるわけではありません。ひとりびとりがそれぞれの立場で、それぞれの戦いを戦いながら、神を信じ、キリストに頼り、どんなに破れの多い生活であってもそのすべてをささげて、誠実に、敬虔に生きていく生活、その生活全体が礼拝なのです。それこそが真理(生活の現実、リアリティ)をもってする礼拝であると思います。だからこそパウロは「これこそ、あなたがたがなすべき」、神の恵みとキリストの福音にふさわしい、道理にかなった(「なすべき」(教会訳では「霊的な」と訳されたlogikosという語の原意))礼拝であると言ったのです。
この礼拝を毎日していると、神様の働きを実感することができますね。一本筋の通った生活をしようと思ったら、たちまち、波風が立ちますでしょ。「円満な」(=偽善的な)人たちは、眉を顰めたり、陰口を言ったりするでしょう、「大人げないね」と。
ですから、生活そのものが、ささやかな戦いの連続になります。しかし、その戦いは、片意地張った、眉間にシワを寄せた戦いかと言えば、全く違うものでしょう。なんか遊びのある、なぜか悦びのにじみ出る、戦いになります。最後の責任を負って下さるのは人間ではなくて、何時も共に居て下さる神様だ、ということを信頼しているからです。「最後から一歩手前の真剣さ」が生まれるのは、その自覚があるからです。
あなたも、一本筋の通った暮らしをしたいと思いませんか? オモロイですよ!
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