Chilhood and Socirty から。p.251から。
どの社会でも、どの時代でも、皆が慣れ親しみ、習慣にしている畏敬の形を見つけなくてはいけません。その畏敬の念は、それぞれ世界に対する様々なイメージから導き出されるものですね。それは、予定説から不確定説まで色々です。大人は宗教を信じないことを誇りにしている人が多いけど、その子ども達は、宗教なしには自分が生かされていることを確かにすることなどできない、と言うことがはっきりするばかりですね。他方で、社会的活動や科学研究から、信頼できるものを導き出そうとしているように見える人もたくさんいますね。繰り返しで申し訳ないですけれども、自分は神様を信じています、と口では言っても、実際には、人生も人も信頼できない人も、ごまんといますしね。
畏敬の念。ニッポンの人たちは、「私は、畏敬の念とは何の関係もありません」、と言う人が多いでしょ。お金以上の物を信じていない人が多い。
今のニッポンには、ウソとゴマカシだらけなのは、この畏敬の念がないからだと私は考えますね。
エリクソンが教えて下すっているように、子ども達は、宗教がなければ、自分が生かされていることを確かにすることなどできないのに、大人たちはお金以上の価値が分からないもんだから、ニッポンには、発達トラウマ障害(DTD)の子ども達が溢れてんですよね。
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