エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#義憤と違和感

2022-04-11 07:28:32 | エリクソンの発達臨床心理
 
#根っこ

 #聖書の言葉 #単独者の恵み #スピリット  #心からの自由 と #ホリスティックな私 #畏敬を感じてスピリットを生きる心の習慣 #毎日の生活を礼拝にする習慣......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、

MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。

としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。

それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。

 

 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 
 p.167から。
 
 
 
 様々な見通しと相手の見通し
 
 
 新しい創造の見通しの中で,私どもが心に刻もうとするのは,最も力のある大人の台本,心から自由になるという偉大な原理を示す台本です。この偉大な原理である心から自由になることは,発達の舞台ごとに,陽気で楽しい想像力が発展する中にあります。私どもがもう1つ申し上げたいのは,生涯を通して陽気で楽しい想像力をもたらすスピリットは,自分の経験に腑に落ちることにも,日々の生活を礼拝にすることにも漲っている,ということなんです。毎日礼拝は,人が成長するのに伴って,様々な良い習慣を身に着けることになります。陽気で楽しい想像力をもたらすスピリットは,このように2人を一体にする生き方のなります。陽気で楽しい想像力をもたらすスピリットは,直接触れることはできませんが,そのスビリットが働く時,感謝感動感激するほど腑に落ちるリアリティがあります。陽気で楽しい想像力をもたらすスピリットは,人間が発達する舞台にも,社会秩序の基盤になる要素にも,浸透する言葉とイメージを確かで正しいものにしてくれます。もう一度,見通しを共にすること全てには,似た者があるということを指摘するならば,たとえば,見通しを共にすることは,遊びの積み木も,あの夢も,壁に掛かった絵も似た者がありましたが,私が申し上げたいのは,共に見通す見通しのど真ん中には,新しい人の息吹のイメージが必ずあるということなんです。新しい人の息吹のイメージは,起こるべくして起こった出来事や昔の出来事によって創造され,選びの時に,選びの場に登場した,広く人類皆兄弟と一体になった人格を示しますが,広く人類皆兄弟と一体になった人格は,以前は仲間外れにされていて,バカにされていた人たちも仲間にします新しい人の息吹のイメージは,新しい工業技術(軍需工業も)にも,何を真実とするかを検証する学問にも,物人の新しい活用法にも,響き合います新しい人には,1つの話し言葉と1つのイメージがあります。1つの話し言葉と1つのイメージを通して,神の声…は,聴く耳のある者を心から自由にするスピリットを心に届けます。ウソつきの預言者は,ウソがばれますし,その信者も使い捨てです。新しい見通しをもたらす神話が明らかにしたのは,赤ちゃんの頃の辛い発達トラウマ体験も,どうしたら奇跡的に手当てされるのか,どうしたら試練も転換点となるのか,父親殺しをしてでも母親が大好きだという思いも,どうしたら,善しとされるのか,いうことです。この神話が示す新しい見通しは,…限りなく強いあの立ち位置を確かにしてくれます。これは,復活と一体になること,あらゆる黙示録の破滅,死という事故や病んだ星回りをも乗り越えて仲間を生かす心からの優しさを確かにしている様に見えます。たほう,あの悪はいつでも,新しい悪人となって,心のなかで育っていくんです。新しい悪人は,新しい人の陰です。新しい悪人は,外では,それに相応しいよそ者となりますし,そのよそ者は、怪しからん となれば,殺されることになります。
 どんな見通しの中でも,新しい人と新しい悪人は,移ろいやすいのかもしれません。それでも,大いなる物語が1つあります。大いなる物語は,神話から歴史書まで,もっと不動で,もっと日々の礼拝になる様々な物語を集め,伝え,人々を心から自由にしてくれます。「生き方」について申し上げれば,その生き方に関わる人の頭とやる気に陰に陽に沁み入る,育ちの見方に関心があります。育ちの見方が,お祭りの時にははっきりしますし,むき出しですが,日々の礼拝では,ほとんど気づかれません。日々の礼拝育ちの見方がほとんど気づかれないのは,育ちの見方が当然視されているからです。しかし,育ちの見方の根っこは,…皆さんの…話し方や考え方に滲み出ます。育ちの見方の根っこは,…皆さんの…話し方や考え方に滲み出るのは,特に,どう生きたらいいのか分からないせいで,話し方や考え方に新しい時の印が現れる時です。私どもが結論として強調することになるのは、ここで素描したあらゆる尺度が,育ちの見方ができるほど全体をつかんでいて,ダイナミックに当てはまるのは,様々な見通しと正反対の見通しが次々に,しかも,感嘆するほど対話する時だけです。この時に含まれる対話の中で,一人の人の中にあるいのちの一巡親子の中にあるいのちの一巡とが繋がることに触れてきました。本当の自分といのちの一巡親子の中にあるいのちの一巡とが繋がることが,創造に参加する礼拝もありますし,中身のない形だけの礼拝もあります。また,人間を上下2つに分けるウソを振りまく礼拝もありますし,人類皆兄弟に至る礼拝もあります。いずれにしろ,一貫して最も大事な対話は,建前と隠された本音の対話なんです。
 このアメリカという国は,最近の様々な危機を通して(以前の危機の多くと同様),驚くほどバラバラな異なるヴィジョンが登場する舞台の連続でした。驚くほどバラバラな異なるヴィジョンは,力づくで状況を変えようとするヴィジョンやあからさまに現状を非難するヴィジョンから,一番献身的に人さまのためになるヴィジョンや静かに瞑想して自分を全うするヴィジョンまで様々です。繰り返してもよいのですが,このような驚くほどバラバラなヴィジョンは全てが明らかにしているのは,一体感を育む陽気な歓びです。真実は,たくさんの異なるヴィジョンが,遊びと息吹をいかに失ってきたかを見てきましたでしょ。遊びと息吹は,相手になるだけで生まれるんです。しかし,現実には,異なるヴィジョン…は,異なるヴィジョンが示す未来像よりも,すでに形ばかりで中身のない現実を批判する批判を,耳障りに繰り返しがちなんです。今ある暮らしの方が,異なるヴィジョンが示す未来よりもはるかにましだと宣伝されます。しかし,新しい価値は,古い価値で虐められてきた人に気づいて義憤を感じている人だけが確信するものです。その義憤は,異なるヴィジョンが生じる最初に支配的になる場合が多い上に,自分の主張が正しいと唱える必要があります。
 
 
 
 
 義憤を実感したものは、自分の主張が正しいと唱える必要がある,というのはわかります。
 たほう,古い価値に違和感を実感したものも,自分の主張が正しいと唱える必要があるのでしょうか?
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