ルターは、関根正雄先生のように、該博な知識を持っていながら、常に謙虚で、人の話を聴くような人だったみたい。どこかの大学(院)教授のように、よくも知らないことを、いけしゃあしゃあと、知ったかぶりしてヒケラカスだけでなく、「あなた達もやってみて」などと言う輩とは、全くの別次元、比べるのもオコガマシイ、申し訳ありません。
Young Man Luther 『青年ルター』p200の第2パラグラフ下から5行目途中から。
ルター最初の詩編講義は、道半ばの仕事という印象でした。ルターの神学的主張が明快になるのは、ローマの信徒へのパウロ書簡についての講義(1515-16)まで待たなくてはなりません。しかし、ここで私どもが関心があるのは、デッカクなっていた、自分を確かにさせられない危機をどうやったら解決するのか、という解決策であって、神学の完成ではありませんから、純粋なルター主義が、最初の詩編講義のおいて登場したことに絞って、議論していこうと思います。
ルターの関心は、神学の完成にあるばかりではなくて、マルティンがどうしたら自分を確かにさせることができるか(そして、ルターになるのか)ということでもあったんですね。逆に言えば、マルティンは、自分を確かにさせるためにはどうすりゃいいか?を解決しようとしていて、結果的に自分を確かにさせただけではなくて、新しい神学も確立することができた、と言えるんですね。おもしろいでしょ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます