「新しい人」になれた! 子どもの笑顔 大江健三郎
「筋立てを作る」遊びに、子どもの「時間と空間」が出てきました。今日は第5段落です。組立遊びの話題に戻ります。翻訳です。 「中心的な葛藤が一つ」あり、その子どもが経験し...
P.44のこの段落が、このToys and Reasons の中で、私は一番大好きですね。
これは、セラピーが一番うまくいったときのことが書いてあるからかもしれません。そうしたときは、子どもの顔に、それは文字通り、必ず「忘れがたい笑み」が浮かびます。それは、「心の奥底から輝く笑み」だとエリクソンは言います。私も、「確かに、本当にそうだな」と感じます。エリクソンもロバートだけではなくて、何人もの子どもの「心の奥から湧いてくる輝く笑み」に出合っただろうと思います。私ども、心理臨床に関わるものにとって、この「子どもの笑み」以上に嬉しいものはありません。
しかし、それだけではありません。この部分は、あらゆる人間の再生、復活の元型が記されているからです。翻訳の後に記していますが、これは、「十字架のイエス」がやっていることと、全く同じなのです。それが不思議です。
大江健三郎さんが、『「新しい人」の方へ』で記しています(p.178)。「私はキリスト教徒ではなく、聖書についての知識も浅いです。キリストが十字架にかかって死ぬことで、対立する二つを自分の肉体をつうじて「新しい人」に作り上げ、本当の和解をもたらした」と。セラピーでも、子どもの中で、折り合いがつかないでいた心の中の葛藤は、対立する二つでしょうね。その葛藤が、セラピーを通して、折り合いがついていきます(願わくば)。それはまさしく、ここで大江健三郎さんが言う和解と同じです。それは、ロバートがダンスは上手なのに、勉強が苦手で、両者の折り合いがつかずにいたのに、エリクソンと組立遊びをすることを通して、その両者の折り合いがついたことが、大江健三郎さんが言う和解であるのと同じです。
そして、その「心の奥底から湧き出た笑み」を子どもが笑う時、その子どもが「できた」といいます、少なくとも、「できた」という顔をしますよね。これが前にも記しましたが、「ヨハネによる福音書」という四つあるイエスキリストの話の四つ目の物語の中で、イエスキリストの最後の言葉として記されている、「τετελεσται all done」と同じです。『新共同訳聖書』というカソリックとプロテスタント諸教会が協力して翻訳した聖書では、「成し遂げられた」と訳されています。私は「これじゃあ、息も絶え絶えの最後の言葉としては長すぎる」と思いますし、「訳も固い」と感じます。物事が完成したときに言う言葉と言ったら、「できた」でしょう。実際問題、子どもの中には、文字通り「できた」という子どもも少なくありませんからね。聖書は、実に人間の真実をよく知っている方が記したものだということが、こういうところからも分かります。
子どもが「心の奥底から湧き上がる笑み」を笑う時、私ども心理臨床に携わる者も、「心の奥底から湧き上がる笑み」を浮かべずにはいられません。そのようにして、私ども心理臨床家も、その子どものおかげで、「新しい人」にしていただけます。うれしいことですね。
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