高橋源一郎さんが、朝日新聞に月一度書いている「論壇時評」が一冊の本になりました。『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書514)。独特の切り口で、民主化のために、大事な点を指摘してくれることが多いので、私は毎月愉しみに、最終木曜日の朝刊を待っています。
早速Amazonで取り寄せて、パラパラと読んで見ました。その一節に「対話のない教育」という件が出てきましたので、今日は教育について日ごろから考えていることの、ほんの一部を書いてみようと思いました。
それがまさに「対話のない教育」です(p114-118)。これを読んで、言語矛盾だと分かりますでしょうか。対話がない教育などは、ありえないからです。このあり得ないことが、日本の「学校」では、残念ながら、大手を振って歩いてんですね。ですから、狂気のアベシンちゃんが登場する以前から、常軌を逸した「教育」が日本の学校にはありましたし、ご承知のように、今もあります。
教育とは、エデュカティオ、「引き出す」という意味ですし、学校とは、スコレ、「暇」→「遊び」という意味ですね。ですから、教育とは、自由な場で、遊び心を持って、愉しい感じでやるものですし、それはやり取り、対話の中で、子どもの、大人のポテンシャルを引き出しあう関係が大事になりますからね。
対話のない教育などあり得ません。しかし、「お役人になった教員」は、これしかやんないですね。この前、当ブログで取り上げた、子どもに「ルールを当てはめる教員」です。眼の前の子どもよりも、ルールが大事になっちゃってんですからね。お忙しいのでしょう。子どもの話をいちいち聞いていたら、きりがないから、ルールを当てはめと、サッサと「お仕舞い」にしないと、授業も、行事も、生徒指導も進まない。実にお忙しい。
「ちょっと待って!」。
「あなたは、何のために、授業をしているのかなぁ?」
「あなたは、何のために、行事をしているのかなぁ?」
「あなたは、何のために、その生徒『指導』をしているのかなぁ?」
こういう問いを忘れると、教師は、教師であることを止めて、「お役人に成り下がった教員」になる訳ですね。
今の学校では、そういう人が「立派」とされるますから、ますます、常軌を逸してます。一度「常軌を逸する」と、ますます「常軌を逸する」方向に、転げ落ちる。
私どもに必要なのは、「常軌を逸している」ものを「常軌を逸している」と感じる心ですし、それをハッキリ、パレーシアに言葉にする勇気でしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます