ほとんどの日本人は、いまや「礼拝」とは無縁な生活をしてますから、「礼拝をする関係」と言われてもピンときませんね。このブログをきっかけに、ご自分で考えてみてください。「礼拝をする関係」とは何か? と言う問いに時間をプレゼントしてみてくださいね。
The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p43のブランク下の12行目途中から。
私どもの用語「儀式をする関係」とは、幸いなことに、あまり気取りがないし、一人の人の文脈で言えば、普段のやり取りなのに、決まったやり取りで、まさに、2人以上の人が、意義深い間を置きつつ、定期的に繰り返すやり取りの事なんですね。こういったやり取りは、(少なくともそのやり取りをしている人にとっては)「これは、私どものやり方です」ということそのものですし、そのやり取りをする人たちすべてにも、その集団に属する人たちにも、その集団に馴染むうえで値打ちがあります。なぜなら、この「儀式をする関係」と呼ばれるやり取りは、人が生まれた時から、人間関係を育む時、育ちの舞台上で、何に力点を置くのが良いのか、を明確にし、導くものなんですからね。この、何に力点を置くのが良いかは、人が馴染んで生きていくためにしなくてはならないことですが、それは1つの動物の種にとって、本能が自然に馴染むためにすることの代わりになるものなんですね。
「儀式をする関係」とは、社会的な動物がやる系統発生的な「儀式のような」行動が本能に埋め込まれたものであるように、人間は本能に埋め込まれたわけではないけれども、他の動物なら本能がやることと同様な重要な働きをするものなんですね。その意味するものは、そのやり取りに関わる人全てが育つために役立つ関わりであると同時に、その集団が育っていくために役立つやり取りなんですね。
エリクソンはこの「儀式をする関係」を明確にしたいと考えているときに、ライフサイクル・モデルに気付いたんですね。ですから、これが分かると、分からないとでは、天地の差がある、という訳ですね。
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