ルターは、従うことが分裂しそうになった青年期を経て、従うことが一つに収れんしていった過程です。
同時に、彼ぐらいの立場の人には普通すぎるように思われる葛藤を並べ立てるとき、ルターが言い張る素朴さを、ただただ不思議に感じます。あるいは、その葛藤の方がとてもありふれているのでしょうか? たぶん、このような立場の人だけが、彼の神学的決断に貢献するような私的な葛藤に、十二分に敏感になれるのでしょうし、そのような私的な葛藤と対話するくらいの誠実さを身に着けているのでしょう。宗教改革の神学者になって、安楽椅子に座っていられる臨床心理士になったのではないルターは、自分の葛藤を描くのは、驚きながら、時として顔を赤らめながら、そして、しばしば信じられない言葉を使っています。しかし、ルターがこれらの葛藤をみんなの前で話すことが多かったと感じずにはおれません。しかも、こういった葛藤は、フロイトが300年以上後になって(啓蒙思想は、心理学的に後へは引けないところに来ていました)、はっきりと直面し、概念にまで作り上げたものです。それは、フロイトが夢の研究をしている時に、フロイトは自分が知的な探求をする際の神経症の要素を疑って、整えたのでした。
ルターが神学にした同じ課題に、フロイトが300年後に直面していたというのは、実に面白いですね。かたや神学と社会改革、かたや心理学と、思想上の影響力、結びつけて考えたことなかったですね。
さてさて、どうなるのか。
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