今はもう、少し古い感じのする「史的イエス」のテーマ。イエスの言動などが歴史的事実かどうかを判断する基準が2つあったと言います。
p343の第3パラグラフ。
イエスが癒しを行う様式は、たくさんの言い伝えのほんの一握りの様式でしかないのは明らかなのですが、そのすべては、根本的な方向性の点で一貫しています。(後ほどさらに詳しくお話しする予定ですが、)その方向性とは、眼の前の現在にこそ、ひとりびとりの人が生かされている、という、≪命の核心≫があることを強調することにあります。≪命の核心≫は、旧来の約束に頼ったり、広大無辺な自然を恐れたりすることにはないのです。もしも私がこのことと「≪私≫の感性」を関係付けるのなら、精神分析家にとっては、単純化のし過ぎであるようでしょうし、「上っ面」な感じであることは確かでしょう。しかし、すでに申し上げているように、イキイキ、ピチピチ生きることは(自分が主人公であり、自分に一貫性があり、まとまっていることと共に)、あるいは、とにかく、自分が生かされていないようには感じないことは(端っこの存在であったりせず、バラバラの存在でもないことと共に)、「≪私≫の感性」の一番本質的な性質の一つです。弱くされたところに踏みとどまっているものが能動的に信頼している傾向をイエスが強調するのは、単に健康を失った人に対する、治療的な「技術」であるばかりではなくて、当時はユダヤ民族の運命の「主人公」である感じが弱められているに違いない、傍らにいる人たちに対する、あるいは、主人公になると約束する約束を信頼することがブレている、傍らにいる人たちに対する、1つの倫理的メッセージでもあるんですね。
≪私≫がイキイキするのは、≪いまここ≫にこそ、そのチャンスがあることに気づいた時なんですね。それが、mindfulnessでもあります。
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