心の眼、すなわち、一隻眼と、心の耳が、とっても大事。
p349第3パラグラフ。
この言い伝えが話されていたのは、男性優位の社会であったことを思い起してくださいね。そうすれば、イエスの側に、母性的なやさしさと父性的なやさしさが、遠慮がちに統合されていることに、気付かされることでしょう。しかも、実際に、ひとりびとりの≪私≫を元気づける何が、この言い伝えと、これに続く、世代間にまつわる言い伝えに隠されてるのかを問うならば、それは、発達の舞台が「続く」ことを確かにすることだ、と私は考えます。大人なら、自分に期待されている信頼の段階は、その子どもや、自分よりも若い人たちにその信頼を残すことだと考えたんじゃダメですね。そうではなくて、反対に、本当に子どものような信頼へと成熟し続けることこそが、自分の信頼を養うのだと考えなくてはなりませんよね。ペリンはこの文脈において、子どもが信頼と本能的な従順さへと開かれていることについて、述べています。私はと言えば、私自身の著作の中で、赤ちゃんの頃の強さは、根源的な信頼だと考えてきましたね。しかも、その信頼は、「重要な他者」、つまり、お母さん(や、それに類する人々)と生まれたばかりの≪私≫をやり取りをする中で、育まれるものだとも考えてきました。この信頼が大人になった時には、この世界にあって、鋭く物事を見抜く力と分別のある秩序を共に大事にできる熟達の域に達するわけですね。
真に「素晴らしい」の一言に尽きます。赤ちゃんの時に身に着ける信頼、それが豊かになるかどうかが、赤ちゃんの時の発達危機でした。その危機を、根源的信頼感を豊かにすることで乗り切ることができたら、それは人生において、たとえ苦労はあっても、生きる意味を見失うことなく生きることの秘訣です。
しかし、エリクソンはそれだけじゃぁ、ない。その信頼は、物事を鋭く見抜く力と分別のある秩序をバランスよく整える円熟の域に達することができる、と言うわけですからね。今の大人、特に日本の学校の教員は、秩序の方に傾いて、子どもの心を見抜く力が弱い人が非常に多いでしょ。それじゃぁ、子どもは不幸です。「分かってもらえない」、「命令と禁止ばっか」と子どもたちが言うのも、間違ってない。状況や人の気持ちを見抜く力も大事でしょ。そうじゃなけゃぁ、物事が好転しませんでしょ。エリクソンは、その辺の事情を百も承知で、物事を見抜くだけじゃぁなくて、秩序も分別しているところが、実に実践家、臨床家の面目が躍如としている点だと、私は考えますね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます