エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ヴィジョンを「共に見る」ことと「群れる組織」

2013-07-08 04:25:49 | エリクソンの発達臨床心理

 

 子どもの頃の遊びは、永遠の遺産と言えるくらいの値打ちがあります。

 子どもの遊びは、大人の陽気で楽しい、の中に生き続けます。

 大人の陽気で楽しい、になった子どもの遊びは、大人を大人たらしめるものです。それが、大人の陽気で楽しい、の3つの働きです。大事にしていきたいものですね。

 今日は、政治の話というよりも、ヴィジョンと組織(家庭、学校、会社、自治体、NPO、スポーツチームなど)の性質の関係について、です。

 

 

 

 政治は、一番上手に人を元気にできる時は、新たにまとまった人々を、一人の生まれ変わった存在(維新、再生、新生[a regenerated])というヴィジョンの元にまとめます。換言すれば、政治は、証明可能な事実(factuality)とやり取りの中で確かめ合う日常生活(actuality)の求めを政治的にコントロールできる時代に、上手に適応する「新しい人」となるヴィジョンの元に、その人々をまとめるのです。政治が「一番汚い」時には、幻を求める人の気持ちにつけ込み、試しにお互いになれあうことを許します。そのなれ合いによって、人は心の中で(<私>と向き合うことを避けて)、目先の利益のために自分自身と取引すると同時に、目に見える形で、その人がすすんで認めたり、賛成したりする相手と、目先の利益のために取引するのです。この2つの間に、幅広い領域があるわけです(ハロルド・ラズウェルと彼の同僚は、その談合を、思考システムの自己システムに対する関係、と呼びました)。この広い領域が求めているものは、いかにヴィジョンを「共に見る」ことが、政治的単位とその政治的単位に特有の指導者を作り出すかを、精神分析的に研究する、ということです。さらに申し上げれば、そのヴィジョンやら、そのシステムやら、それぞれの市民の気持ちに中でのその指導者やらの、長期的な意味を精神分析的に調べることもそうでしょう。たとえ、その指導者の役割が、今あるヒエラルキーの中のものでしかないとしても、ですね。いかに、一人の人の超自我、ないしは、自我理想が、さらには、いかに一人の人のアイデンティティーが、変わりゆく世界に対する見方と、ダイナミックに関係しているか?ということです。その世界とは、その人が、一市民として、認めることもあれば、認めないこともありますし、また、搾取することもあれば、命を懸けることだってありますし、さらに申せば、そのもとで苦しめられることもあれば、それに対して抵抗することもありますし、協力したり、異議を唱えたりすることだってあるものです。

 

 

 

 

 今日のところは、ヴィジョンと組織(国家を含めて)の関係が問題になっています。私が着目したいのは、赤にした部分の最初です。その組織のヴィジョン、必ずしも「共に見る」ヴィジョンになっていない場合だってありますが、それでも、その「共に見る」程度の濃淡は別にして、その組織がどのようなヴィジョンを持つかが、どのような組織になるのか、その組織のリーダーがどういう人になるのかを決めるということです。

 あるいは、日本の場合、リーダーにヴィジョンがない、ということの方が日本の組織の常ですから、リーダーにヴィジョンがないことが、どのような組織になるかを決めている、ということです。

 リーダーにヴィジョンがない組織は、ヴィジョンの元にまとまることができませんから、必然的に「群れる集団」になります

 この「群れる集団」の特徴を次に記しておきましょう。

1) ヴィジョンでまとまる訳ではないので、権力を用いて組織のまとまり、場合によっては、引き締めが図らますから、人の序列(「俺はおまえよりも上だ」)が重要視されがち。これは人間を上下に分けるウソです。

2) メンバーのやり取りや話し合いよりも、上意下達や規則など、形式主義が幅を利かせがち。これは、儀式化が死に、儀式主義がはびこることです。

3) メンバーにやり取りや話し合いがないので、組織が硬直化して、後退する。メンバーが、生きているのに死んでいるため、組織に活力が生まれる訳がありません。

4) 異質な存在を、組織の力にする力も仕組みもないので、異質を排除する力と仕組みが、多くの場合、非公式に生まれやすい。つまり、この組織は、他罰的な超自我、他罰的な良心が支配的になのです。これが、いじめ、パワーハラスメント(モラルハラスメント)、村八分が生まれる社会的、心理的背景になります。

5)形式的に言葉でたげ「個性は大事ですよ」が唱えられたとしても(「口ばっかり...」)、個性はそもそも異質なものですから(“think different”、「みんなちがって みんないい」)、実際はメンバーの個性、その人ならではの音色、香、雰囲気などは認められず否定されます。むしろ、場を読む」ことによって、自主的に個性、その人ならではの音色、香、雰囲気などを抑圧することが、あたかも重要なことにように考えられがち。これは、 メンバーのアイデンティティー形成は抑圧される、ことになります。

一言で申し上げれば、「群れる組織」は、メンバーひとりびとりが、<私>と向き合い、<私>とやり取りすることを避けるようになりますから、無意識の暴力に支配された組織と言えるでしょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 余暇にしか遊ばぬ大人、遊ん... | トップ | 手応えのない現実と、人の心... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿