根源的信頼感は、母親がやり取りのあるかかわりをしてくれたかどうかでほぼ決まりです。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.255の、8行目途中から。
根源的信頼と根源的不信の割合、あるいは、関係はごく初期の赤ちゃんの時期に決まってしまうものですが、ひとりびとりが単純に信頼できる度量の広さがほぼ決まってしまいますし、その結果、その人が属する社会の信頼の貯金に、どれだけ貢献できるかも決まってしまいます。この社会にある信頼の貯金が、今度は、将来母親になる人が、将来の赤ちゃんに信頼を教えることになる世間をどれだけ信頼するかを決めることになる訳ですね。
ここを読むと、またもや、ニッポンが愛着障害だらけかが、分かります。いわば追い打ちのところかもしれません。とにかく、来る日も来る日も「ウソとゴマカシ」、「こっそり自分だけが得する話」のオンパレードでしょ。国家予算が破たんする前に、ニッポンの信頼の貯金がすでに破綻してんですね。
ですから、将来のお母さんになる女の子たちは、世間を信頼してません。家庭でも信頼を学べずにいるところに、学校でも、ますます信頼を学び損ねているケースがあまりにも多い。ですから、母子だけ見て、「お母さんが…だから」という議論には、社会の信頼の貯金の視点が欠けてます。根っこは、社会の信頼の貯金です。
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