改定 「対話のない生き方にこだわり、いつもでも『自分は上』にせずにはいられない、迷惑な生き方」赤ちゃんの時の危機で、根源的信頼感ではなくて、根源的不信感の方に傾いている人が、少なくとも今の日本では多いので、その後の人生においても、人と対話できない、魂が響き......
久しぶりにエリクソンの著作に戻ることにしました。聖書の言葉やインターメッツォの言葉も、折に触れて取り上げることにしますね。
今回取り上げるのは、Piers, Maria W.編、Play and Development.所収のPlay and Actuality.です。
マリア・ピエールさんの行き届いた準備のお陰で、私はこの一連のシンポジウムで最後のスピーカーにご指名いただきました。ここではお許しを頂いて、2つのお話をしたいと思います。1つはお話するとは夢にも思わ果なったことですし、もう1つは、私の仕事人生を通していつもお話していることです。コンラッド・ローレンツ、ジーン・ピアジェ、ルネ・スピッツの後に最後のお話をする、などとは夢にも思わなかったことでした。それから、いくつか予断をした後で、子どもたちの遊びにもう一度戻ってみたいと思います。子どもの遊びは、子どもが手にしている、人間が秘めている可能性の源泉だからです。それでは、子どもの遊びを観察するところからはじめまして、生涯にわたる関連事項をお話しして、このシンポジウムでお話下すったことについて、思いを巡らせたい、と思います。
ここにエリクソンの立場がハッキリと示されています。子どもの遊びは、大人の遊びと異なり、暇つぶしではありません。子どもは、誰にも教えられずとも、自分の心理的成長に必要な課題を、遊びを通して、果たそうとするからです。
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