エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ハンナ・アーレント   やり取りがない=悪の凡庸さ

2014-06-27 10:07:47 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
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 ハンナ・アーレント。昨年、その名を冠する映画が公開され、話題になったといいます。ご覧になった方も、おられるかもしれません。大学時代、政治哲学学徒であった私は、なぜだかわからないけれども、気になる政治哲学者は、シモーヌ・ヴェーユとハンナ・アーレントでした。お二人とも、女性の哲学者でしたね。その後、シモーヌ・ヴェーユの著作はじっくり味わう機会を得ることができました。しかし、ハンナ・アーレントについては、いまだその好機は訪れていませんでした。

 一昨日、フェリス女学院大の矢野久美子教授が、NHKの「視点・論点」で、「ハンナ・アーレントと『悪の凡庸さ』」について、解説を施してくださったことは、アーレントに対する思いを再び呼び覚まして、あまりあるものでした。それをハッキリ目覚めさせたのは、「悪の凡庸さ」という視点です。

 ナチスのユダヤ人ジェノサイドにおける重要人物、『エルサレムのアイヒマン』。そのアイヒマンは、悪魔のような人物ではなく、実に「官僚的だった」ということ。それは、「自分の頭で考えることを止めた」イエスマン。「命令に従っただけ」。

 「自分の頭で考えることを止める」こと。この「考えないこと」が、この世を滅ぼすような悪を生み出した。しかし、それは「考えない」ことにとどまらない点が重要だと私は感じますね。

 つまりそれは、眼の前の人との「やり取りのなさ」であり、眼の前の人を「感じない」ことから生じる、ということです。エリクソンに学び、言葉にならない言葉をしょい込まされている子どもたちと付き合う中で、私が感じてきたことは、アーレントが言う「悪の凡庸さ」は、「やりとりのなさ」と「感じない」ことからまさしく生じている、ということです。

 日本の学校の先生は、大半が“教育公務員”。お役人です。子どもの「問題行動」は指導の対象になります。しかし、それは単なるもぐらたたきに終わることが少なくない。その時その場の「問題行動」が見えなくなるだけで、別の時別の場にその「問題行動」を移し替えたに過ぎないことが非常に多い。ではなぜそうなっちゃうのか?

 それは、その「問題行動」と言われることを為した子どもとの「やり取りのなさ」のためですし、その「問題行動」と言われることを為した子どもの気持ちを「感じない」からだと、私は感じてきました。

 ですから、「悪の凡庸さ」は、何も80年前の第三帝国にのみあったのではありません。今の、この日本にもあるということです。それは、あのお役人の東電が起こした福島原発の持続的放射能汚染事件であり、こんだけたくさんの子どもたちが深刻に苦しんでいるのに、それを一顧だにせずに、「集団的自衛権」問題にご執心の、あの、小役人的安倍晋三首相の言動(もっと身近にもいますが、割愛いたします)です。

 私どもは、アーレントが主張するように、眼の前のことを自律的に考え続けるだけではなく、シモーヌ・ヴェーユが主張するように、困難な状況に踏みとどまり(ヒュポメノー)、レイチェル・カーソンが教えて下すっているように、眼の前の「自然」を感じ続けたい、と強く願う次第です。

 

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