本当に自分のためになることは、自ずから人様のためにもなる不思議ルターは回心したのも、ケツを出すトイレでしたが、言葉遣いもケツ言葉でした。 Young Man Luther 『青年ルター』p206の第3パラグラフから。 ......
関根正雄先生の言葉を学んでいると、ほかの人の文書では感じることのできない何かがありますね。知的なだけではない何か。主体的な生き方? でも、それでも、言い尽くすことのできない何か? それが、もしかしたら、霊的なもの、スピリチュアリティ、なのかもしれません。今日も『イスラエルの思想』から。
聖書的な生き方は一度壊滅し無に帰した人間が戒めにより恵みとして新たに霊なる神に生きることを許された生き方である。そのような意味で、自分のわずかな経験を通して旧約を私は契約と律法から見たいのである。…現代の生き方は無信の信、無愛の愛、無望の望に生きることであり、この「無」は我々日本人にとっては仏教にも深く通ずる「霊的」なものであるが、律法から戒めへの否定的転換を経たものであらねばならぬ、と総括しうる。そこに現代に生きる自由が生まれる。
生まれながらの自分では、≪本当の自分≫ではないのです。一度生まれではなくて、2度生まれでなくてはならないからです。その事情を、関根正雄先生は、旧約聖書という舞台で教えてくれているところです。
しかし、これは、学問的な研鑽を積んだ者だけが到達しうる境地か、と言ったら、それは全くの見当違いだ、と言わなくてはなりません。
というのも、一番深い深層心理が現われたコラージュや箱庭をする小学生が、同様な道すじを通る場合があるからです。小学生でも「知っている」ことなのです。ですから、関根正雄先生が言う「無」は、クリスチャンや仏教徒の専売特許ではない。「無」を、目に見える形で、小学生が、箱庭やコラージュにして見せるからです。そうなれば、子ども達の眼がキラキラしだすので、すぐにそれと分かります。「無」は意識できなくても、小学生でも確かな手ごたえを感じることができるのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます