
聖書の言葉: #アナニアの失敗 #ウソは心の死 #ウソは自分の死インターメッツォ : 信頼して人生を歩む、ということ 今宵は、1人の無名の女性の言葉を学びます。その女性は、西村秀夫先生の奥さん、......
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』。 P.96,最後の第3パラグラフから。昨日の所も,ごいっしょに。
生涯を通して,日常生活は,善と悪,淨と不浄を区別する境界線を不動にします。これらの善悪などの分別の境界線が,大人の世界の中にある善悪などの分別を言葉にする暮らしの中で,あらゆる日々の礼拝に当てはまる善悪などの分別の判断基準を,一番正しいもの(訳注:であるかのように)にします。その日々の礼拝では,人間は,神様の教えに身も心もピッタリと従いますし,礼拝の進め方の細かいところにも全体にも目を配ります。礼拝に参加する人たちの現実をともに乗り越えた,神様を信頼する気配が匂い立って際立ちますし,共に分かち合っているもの全てを,互いに自分から分かち合いますし(願わくば,容疑者が自分の罪を告白する事も含まれてほしいものですが),そして,日々の礼拝こそは,決して手放し得ない1つの心の習慣です。
しかしながら,ルールを言葉にして出来事にすることを,仕事でも,自分の生活でも,実際に見て分かる中に,この日常生活を礼拝にする人生の習慣によって,母子2人がピッタリと一心同体になることがうまくいかない場合もあります。すなわち,赤ちゃんが我慢できて,うまく働く様々な分別の境界線が,世代から世代へと,悪い良心と戦いながら確信をもって伝えられなかった場合です。
悪い良心が,日々の生活全てを支配している事に気付いて,様々な分別の境界線を,鷹揚に,一貫性を持たせて,大人も言行一致を意識しながら,伝えることが大切です。
いまのニッポンで,倫理や道徳が崩壊しているのは,大人の不始末,大人がだらしないからです。大人が現金というマモンに取り付かれて,大人の想像力,大人の良心が貧困だからです。
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