今日も、林竹二の言葉から。「教師には2つの源流がある」 『運命としての学校』(1983)から。
授業の中でも、教師というものの存在には、子どもの心を開かせないものがある。これは教師個々の責任ではないかもしれない。制度的、大勢的に、やはり、教師は、一種の権力者的位置に立たされているものでしょう。たとえば評価という問題がある。さらに一定の教えるべきことが与えられている。そして、前に坐っている1個の人間としての子どもでなく、その教えるべきことが授業の出発点になっている。そのために教師は子どもが持っているものを授業の中で引きだすことかできないということにもなる。これは大変悲しいし不幸なことだと思います。
教育の皆さん、あなたの授業の出発点は、子ども? それとも、「指導」案?
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