マイスター・エックハルトは、禅にも通じる絶対無を神と説きます。西田幾多郎の絶対矛盾の自己同一に何となく似ていますよね。それにしても、マイスター・エックハルトの言葉は難解です。
p72の3行目から。
アリストテレス哲学と矛盾律の違いについて議論してきました。それは、神の≪真の関係≫という概念において、重要な違いとなる根拠を準備するためです。矛盾律の教師たちは、言います「人は、二律背反の中で初めて、現実を受け止めることができます。思想の中で究極的な現実の単位、すなわち、唯一の神を受け入れることはできません。」と。このことから次のような結論に達します。すなわち、人は思想の中に答えを見つけることを、究極的な目的として求めているわけではない、ということです。思想は私どもを知識に導くだけであって、思想は私どもに究極的な答えをくれたりしない、ということです。思想の世界は二律背反に捉えられたままです。この世の中を究極的にとらえる唯一の方法は、思想にあるのではなくて、行為にこそ、一致の経験の中にこそあるのです。矛盾律が導く結論は、神の≪真の関係≫は、神を思想によって知ることでも、神に対する≪真の関係≫を頭で知ることでもなくて、神との一致を経験するという生身の行為であるということです。
ここは、科学的真理と人格的真理を考えると、よく分かるところですね。
科学的真理は、頭だけ、言葉だけで教えることができます。物理学の法則や四則計算、漢字などは、頭でだけ、言葉だけで教えることができる科学的真理ですね。
それに対して、「いじめはやらないほうが良い」、「人と≪真の関係≫になるとはどういうことか?」、「地球を守ろう」などは、頭でだけ、言葉でだけでは、伝わらない。それどころか、頭でだけ、言葉でだけ伝えようとすると、むしろ逆効果です。たとえば、「いじめは止めましょう」と言う張本人が、実際はいじめをしていたら、どうでしょうか?「いじめは止めましょう」という言葉は、説得力を失うばかりではなくって、むしろ反発されるでしょう。
人格的真理は、一人ひとりが、「どう感じるか?」、「どう考えるか?」、「実際にどうするのか(「言ってること」と「やってること」を一致させるつもりがあるのか)?」ということが、問われなくてはならないんですね。ですから、「言ってること」と「やってること」の一致が何よりも大事になりますよね。
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