「共に見る」ことの不思議!
前回は、「見ること」が実に奥深い意味を宿していたことを、エリクソンは教えてくれていましたね。幼児前期の翻訳に入る前に、エリクソンが前回教えてくれたことを、私なりにもう少し敷衍して...
昨日、「赤ちゃんの目の前に、お母さんがいること、それが最も大事でしょうね。しかし、日本ではそれが困難な場合が少なくありませんね。それが日本の貧困の始まりです。フロムがここで述べているように、理屈ではないのですね。赤ちゃんの目の前にその子のお母さんがいること、それが最も大事なことなのです。」と申し上げました。なぜそのように言えるのでしょうか?ちょっと断定しすぎじゃないの?
いえいえ、それはそうでもないんですよ。今の日本でなんでこんなに、ウソとゴマカシが多いのだと思われますでしょうか? それは、お母さんがその子どもと一緒にいることが、ここ数十年とても少ないからなのです。良心(意識)という言葉は、ヨーロッパ諸語(ギリシャ語、ラテン語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、スウェーデン語、スペイン語、イタリア語…)では、「共に見る」であることは、このブログの読者の皆さんなら、すでにご存じでしょう。そして、「共に見る」は、テレビのリモコンではないのですから、遠くから操作できるわけがありませんでしょう。実際にお母さんが赤ちゃん(子ども)と「共にいる」ことがあって、はじめて可能なのです。
ですから、日本でこれだけ(アルツハイマー症の治療研究の国家プロジェクト、有名デパート、有名レストラン、有名ホテル、有名鉄道会社、安倍晋三首相、東京電力…)ウソとゴマカシがあふれているのは、その(組織内の人の)お母さんが、寛容な心で「共にいる」ことをしてこなかったからなのですね。
ですから、お母さんがその子どもと一緒にいないことが、日本の貧困のはじめ(元型)なのです。
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