エリクソンが言う「大人の役割」とは、子どもに生きる悦びを感化することです。これは、フロムの言う「大人の役割」と完全に一致しています(今の教育は、「全うで、健全で、人間らしい生き方に対するイメージ」をナイガシロにしてます)。ついでに、私が「大人の役割」と考えるものとも完全に一致しているのが、「生きる悦びの感化」です。「正しいこと」を教えているあなた、それをやるたびに、子どもは「生きる悦び」から離れていくことに早く気づいてくださいね。
The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p70の第3パラグラフから。
ritualizm リチュアリズム、「形ばかりの礼拝」が、大人の時期に蔓延る場合、それは、authoritism オーソリティズム、「エバッタ態度」だと私は考えます。つまりそれはね、お金を使うにも、家族の生活にも、regimentation レジメンテーション 「正しいことを押し付ける」ために、力そのものを、心の狭い態度で、人を育てることにもならないやり方で、使っちゃうことなんですね。もちろん、純粋なgenerativity 「自分が損をしても、次世代の人や物事を育むこと」には、本物の≪超越≫が必ずあるものですけどね。
形ばっかりの礼拝、礼拝とは無関係な生活をしている多くの日本人は、「何のことかしら?」と思うかもしれませんね。これは、形ばかりの言葉であったり(つまり、ウソとゴマカシです)、形ばかりの態度(やる気はないけど、やったフリをする、アリバイ作りの行為のこと、結局、「やった」ことにはなんない)のことですよね。
「形ばかりの礼拝」には、“嘲り“と“不機嫌な表情“がつきものだということですね。それか特色です。「本物の礼拝」は、溢れるほどの悦びに満ち満ちていますから、自ずから微笑みが溢れますでしょ。嬉し泣きの場合も結構ありますよね。でも、「形ばかりの礼拝」では、そんな悦びは基本的にございませんし、不満と不安がつきものですから、自分が「上に立つ」ことをしたがります。それが「エバッタ態度」になるんですね。その人たちは、気の毒なことですが、「エバッタ態度」をして「上に立つ」時だけ、一瞬しか、生きている実感が持てないからなんですね。
こういう人は、「弱い立場」の人がすぐ近くにいる仕事を無意識に選びたがります。なぜなら、「弱い立場」の人でしたら、自分が「上に立つ」のも簡単ですからね。ですから、こういう中身のない「エバッタ態度」の人は、教員、保育士、医者、大学教授、看護師など、教育、福祉、医療など、弱い立場の人を相手にする仕事を、無意識に選びたがります。
もちろん、この「エバッタ態度」は子ども(その他の「弱い立場」の人、患者、学生など)にとって、大迷惑なんですけどね‼
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます