私どもは、意識と上手に付き合うしかないみたい。
p344下から4行目途中から。
ここでもまた、この翻訳者は、≪いまここ≫に生かされていることに、ヌミノースの感じがあることの重要性に対して、フロイトがあまり強調しないのが普通である傾向に従属しています。というのも、「illumination イルミネーション(灯り)」と翻訳されている言葉は、(元のドイツ語では)「die Leuchte(天才、灯り、光る人、導き手、誘導灯など)だからですし、この言葉は、実際には、光度を示し、ガリラヤの言い伝えでは2つの意味があるからです。その2つの意味とは、すなわち、「Leuchter 灯り」と「Leuchte すなわち、光の性質、輝く光」です。この丸ごと「疑り深い」言葉は、私どもの意識が、それがどんな値打ちであっても、人生そのものに擬えられるという点で、創造主が瞳(一隻眼)に光を与えたことを、讃美歌作者が気付いたことと、最大限の注意を払っても、それほど違わないものなんです。
意識。それは、無意識にいつでも犯されやすいものに違いはありません。人生も、いろいろな危機によって、侵されやすいものに違いないのと、同様です。しかし、この意識こそ、神様が瞳(人実)に与えた光と同じなんですね。ですから、意識を新鮮にしていくときには、必ず、ハッキリ・キッパリとした明快さと、飛び跳ねたくなるような、心から温められる、温もりが、必ずあります。
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