ユダヤの民の歴史と,神様のお名前を通して,人間の本物の倫理,生きる指針をエリクソンが明確に示しているところです。September 14, 2017 全面的に翻訳しなおしです。人生はうまくできていることを実感しつつ。
The Galilean saying and the sense of "I" 「ガリラヤのイエス・キリスト物語と≪私≫の感性」The Yale Review. April 1981から,p336冒頭から。
倫理的に宗教的に自分が確かにされ,自分には神様から託された道徳的な使命がある,という日々続いていく≪私(たち)≫の感性が,ユダヤの民が他の民族の中に四散するというまさにその事実によって、枯渇するどころか、力を得たことによって、一神教の特質、すなわち、イエスの教えに受け継がれた宗教的な遺産へと思い至ります。ここで私どもが考えなくちゃならないのは、倫理の力と,当時の日常生活での倫理の力の条件です。一点の疑問の余地もないことですが、一神教のおかげで,ユダヤの民は,(人間)力を得ました。というも、一神教のおかげで、ユダヤの民は、苦難さえも,ヤーウェの神のご計画,すなわち,ヤーウェの神の約束,になるはずの出来事のウソのない側面だ,と心から受け止めたからでしたね。。≪私≫の感性が大事だと申し上げる時、私どもは「私は≪いまここ≫に生きている私」という神様のお名前(出エジプト記 第3章14節)を引用してきました。リーフ・ボーマンは、「≪いまここ≫に生きている」(hayah)に宛がった言葉には、ヤーウェの神のお名前と関連付けられて使われるものですが、非常にイキイキ、ピチピチと働きかける性質がある,と記しています。実際に、「≪いまここ≫に生きている」という現在は、≪いまここ≫を生きていることとも、≪いまここ≫でそうなりつつある将来のこととも、働きかけ出来事にすることとも,話して声の言葉にすることとも,同じだ,という感じです。「神様が話しをすると、出来事になりました。神様が命じると、命じた通りに,出来事になりました」(詩編第33編9節)。ヤーウェの神が「≪いまここ≫に生きている」「ハッヤー (訳注:ヘブライ語で、「出来事になる」という意味)」ってことは、ユダヤの民が「≪いまここ≫に生きている」「ハッヤー」になる,ってことになりますね。「私の声に従いなさい。そうすれば、私はあなた方の神になります。あなた方は私の市民となります」(エレミヤ書第7章23節)。さらには、ヤーウェの神が「いつでもおられます」し、どこにでもおられます。「地の果てまで,全てを創造する創造主」(イザヤ書第40章28節)です。このように「≪いまここ≫に生きている」実感は、実際に,「≪いまここ≫に生きている」ってことが,様々なことを(訳注:「できた τετέλεσται テテレスタイ」と言えるほど)全うする時、人類すべてを相手に互恵的に働きかけることになるんです。
≪私≫の感性,とは,自分が生きている際に,主体的な判断力の大元になっている,イメージ,感覚,直観力のことなんです。それは,なかなか言葉にしにくいものですが,「reasons 覚めた精神」になる大元です。そこには,「≪いまここ≫に生きている」実感に伴う,圧倒的なヌミノースが必ずあるものです。エリクソンは,≪私≫はスピリチュアルで,あまりにもヌミノースを実感するものだ,と繰り返し述べていますよ。それは,ヴァン・デ・コーク教授も同様で,彼は「神との出会い,epiphany ひらめき」だと言っています。
≪私≫は,あまりにもヌミノースを感じるものですから,その畏敬の念から,「人間を上下2つに分けるウソ」のウソのヴィジョンに留まることはできなくなり,「人間皆兄弟」という誠に人間らしく,倫理的な本物のヴィジョンを信頼するように,おのずからなりますから,実際の働きかけ,関係の始め方でも,人類すべてを相手にしているみたいに,どんなに弱い立場の人一人に対するときも,大切にできるようになるわけですね。
科学的真理ではなく,人格的真理の奥深さと広がりでしょ。
サイコセラピーを深いレベル,最深欲求に通じるレベルでしていると,おのずから,神様からの不思議に満ちた,驚きの,深くて大きな歓びに,必ず出会えるもんですね。
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