#チームワーク平和 #錦織
#自分が不動にされる心の習慣 #体感の塊 #大丈夫? #腑に落ちてる? エリクソンの叡智: #人間力人品 #世代間伝達 #弱さも孫子の代まで 発達トラウマ障......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
今朝までは,Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.110,第2パラグラフから。
今朝は,P.111,19行目から
青年期と理想:
本当の自分と真実
…
青年のために予め用意された,箱だけで商品が入っていない偽の礼拝にする毒気は,「全体主義」です。この「全体主義」は,硬直した様々な考えに囚われて,問答無用に掲げたお題目に,熱に浮かされながら,人をイジメながら,夢中になることです。この全体主義の道連れは,青年に特有な自己愛的な(訳注:身勝手な、安倍ちゃんみたいな)人や,様々なイデオロギーにありがちな,聖書の神様でないものを,神として崇める偶像崇拝ですからね。それから,この「全体主義」は自己愛とピッタリですし,この自己愛は,ひとりびとりの若者に特有なものですし,イデオロギーが偶像崇拝になりやすいことに特有なものでもありますし,偶像崇拝に退行しているみたいでしょ。つまり,仲間内の理屈がない訳じゃない,ということです。さらに,聖書の神様と一体になる舞台は,「仲良くなる」の舞台とも一体です。すなわち,仕事,友達,大切な人と仲間になりたい気持ちの中で,いつも互いに大切にし合うサンガこそが,「仲良くなる」の舞台です。この青年期に聖書の神様と一体になる舞台は,日常生活を礼拝にするリストの中に,「自分から仲間になる」スピリットが加わります。青年期の舞台の,形ばかりで中身がない偽物の礼拝になる側面は,自己愛村でして,この自己愛村は,仲間以外をイジメる「上から目線の集団」になります。自己愛村 が仲間以外をイジメる「上から目線の集団」になるのが分かるのは,さもしさと偏見の巣窟と,熱狂的な意見や冷酷な厳罰,という,この世でお馴染みのお化けが,恋やお仕事,友情や絵空事で結びついた若者のお喋りや活動に広く行き渡りますから,人間が喉から手が出るほど求めている絆ができます。この絆は,互いに挨拶し合う様々な場面で強まりますが,その挨拶とは,たとえば,鳥たちが「僕たちが生まれたのは,互いのためだね」という香りを出して踊ったり,「僕たちが生まれたのは,互いに大切にし合う約束をするためだね」とという香りを出しつつ踊ったりすることです。人間の一生の中では,その挨拶は,「僕たち2人が,互いに大切にし合って一心同体に成ること(あるいは,互いを完璧に満たし合うこと)は,僕たち2人が1つのペアに上手になることに相応しいし,互いに大切にし合って一心同体に成ること(あるいは,互いを完璧に満たし合うこと)は,互いに大切にし合う様々なペアから,創造しいのちをもたらすいのちの中で,互いに大切にし合う仲で仲間になることを約束することになりますよ」という気高い芳香を放ちます。
大人であること と 毎日礼拝で子どもに「あなたは気高い」と伝えること
若者の見習い期間を終える「一廉の人物になる儀式」を経て,「約束をする儀式」が若い大人にプレゼントするのは,新たに一心同体になって仲間に成るスピリットに仲間入りする《免状》です。その《免状》は,聖書の神様のいのちの唯一の通り道を,新しく創造された者に,伝えることです。聖書の神様に頼る毎日礼拝は,聖書の神様のいのちの唯一の通り道を,新しく創造された者に,伝える点で,徹底して従順ですし,ハッキリしています。しかしながら,大人になってからの,腑に落ちる礼拝は,はるかかなたのご先祖様,歴史上の英雄,魂や神々,王様や創始者やお国に頼るものでも,腑に落ちるものであるならどの礼拝でも,子どもの頃や青年の頃の,何気ない毎日礼拝を繰り返し,強化するものに定められています。と言いますのも,大人になっても,子どもの頃の毎日礼拝を繰り返し強化するからこそ,スピリットを育てることが一体になるからです。腑に落ちる礼拝は,また,大人に対しても「あなたは気高い」と伝えます。と申しますのも,本物の大人になることには,毎日礼拝の司祭の車輪を回す点で,繰り返し力づけられたい,ということも入るからなんです。毎日礼拝の司祭の車輪を回す点で,繰り返し力づけられたい,という大人のニーズ(訳注:単数)とは,隣に創造された子どもの眼の中で,(訳注:聖書の神様みたいに)「とても善いよ」といつも頷いて一貫して肯定してくれる人のモデルに,心から歓んで成ることと,「いけないことはいけない」とハッキリと伝える者として,また,真っ当な気高い生き方をするのがミッションですと態度で示す者として,歓んで関わることと,ピッタリと重なります。毎日礼拝でのこの本物の大人の元気を,私は次世代を育てる元気だと申し上げたいんです。本物の大人の元気には,親や教員が子どもを育てることや,物を作り出したり,治療したりする時に弱い立場の相手を育てることも,子どもや弱い立場の相手を「とても善いぞ」と肯定する毎日礼拝になります。大人は,聖書の神様から「とても善いぞ」と言われたキリストを身に着けて,「私は自分の本音を(訳注:キリストに救っていただいた者(キリストに聖書の神様の前で「とても善い」と肯定していただかなければならない者)でしかありません,と心底から)自覚しています」という確信に,繰り返し思い至らざるを得ない者でしかないことに決まっています。繰り返し心から安心することって,へこまずに心満たされることが多いのは,父なる聖書の神様,最高の王様を,1人の親みたいな人格(人類を上下2つに分けるウソに騙されて,自分を高等民族と見る高等民族の仲間に親で,しかも,男親です)と見るお陰なんですね。その1人の親みたいな人格である聖書の神様は,聖書の神様が私ども人類を,聖書の神様のイメージの中で創造した時に,自分の本音を自覚していたのは間違いありませんでしょ。
本音を自覚しているのが本物の大人です。本音を自覚しているので,本音と建前を分けることができません。
忖度して,本音と建前を使い分ける人は,年齢的には成人していても,未熟者のままです。
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