信頼がなくなると、偶像が登場します。偶像崇拝と言われても、ピンとこない方が少なくない、と思います。日本人にとって、まだリアリティを失っていない実例を一つ上げるとすれば、それは太平洋戦争を、天皇を神と崇めてやったために、どれだけ理不尽な死が、日本人だけではなくて、アジアの民にもたらすことになったかを考えれば、分かるかもしれませんね。
p343の6行目から。
このことから、私どもは2つの判断基準を手に入れることになります。この診断基準に基づいて、関わりのある学者の皆さんが (聖書の記述が歴史的史実として)本物なのかどうかを判断していきます。その一つが「違い」の原理です。それは私どもがすでに見てきたように、対応するユダヤとギリシャの文献から引用したものとの違いを見るのです。もう1つは、「一貫性」の原理です。この原理は、たくさんの物語を結びつけ、全ても物語の中にある本物の要素を示します。本物の要素は、たった一つかそこらの文脈の中で確かに裏付けされたものかもしれません。このような「一貫性」の原理が、もちろん、一番説得力があるのは、この原理が、ブルトマンが伝統的に、新たな「気分」と呼ぶものを描き出す場合です。
「史的イエス」のテーマです。聖書の記述が、歴史的事実かどうかを判断する基準が2つ紹介されました。
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