聖書の言葉で、生活の中で一番よく使われるのが、「目からウロコ」かもしれませんね。でも、これは、サウロと呼ばれていたパウロが、キリスト者になる時のことを述べたところで、「たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった」(『新約聖書』「使徒言行録」第9章18節 新共同訳)とあって、目からウロコは落ちないことが解かります。
「世の光」と「地の塩」は、「目からウロコ」ほど使われないかもしれませんが、耳にする機会くらいはあるかもしれません。一般的に「キリスト者の生き方の目標」と思われています。でも、それも間違い、というお話。
本田哲郎神父様『釜ヶ崎と福音』から。
わたしたちは、聖書の言葉を教会で聞くものだから、「教会の、この信者席に座っているわたしたちが地の塩だといわれているのだ。頑張らなくっちゃ」「わたしたちが世の光として、一隅を照らすように頑張らなくっちゃ」と思ってしまう。…
イエスが話しかけている相手は、ほんとうに貧しく小さくされ、社会で箸にも棒にもかからんと軽んじられている人たちです。自分か小さくされているがゆえにとぎすまされた感性、本物と偽物を見わける洞察のするどさ、それが塩気なんだよ、と。…その感性がキラキラ輝いている。しかし、それが世間の価値観と違うので、「これはいっちゃいけないんだ」とか、「行動にうつしたらどうせまた押しつぶされる」と、自分でまたそれを押さえこんでしまう。自分で塩味を失わせてしまうことが多い。でも、「そうじゃないんだ、あなたがいま小さくされているがゆえに、今あなたが持っている価値観は、みんなが学ぶべき大事なものなんだよ」とイエスは励ましているのです。
本当ですね。
私は、「不登校」と呼ばれて学校に行かなくなった生徒の中に、まさに、本田哲郎神父様がここで教えてくれてることと同じことを強く感じる人が何人もいますね。それは、今のニッポンの学校が、「教育」、エデュカチオとしての教育の場ではないことを示す、最も良い証拠だと感じています。
「今あなたが感じていることは正しい、教員がやってること、言っていることが大間違いです」
と不登校の子どもに言うことが頻繁にありますね。
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