「放蕩息子」の譬えの、さらなる続きです。
p354第2パラグラフ。
「ところで、年上の息子が畑にいました。彼は自宅に近づくと、何事が起ったのか? と問いただしました。問われた人は彼に応えて言いました『あなたの弟さんが戻って、お父様が肥えた牛を肉にしました。なぜなら、弟さんが無事に戻ったから。』と。しかし、その年上の息子は怒って、家に入ろうとしませんでした。父親が家から出てきて、家に入るようにと頼みました。でもその兄は父親に応えて言いました。『長年私はあなたのために働いてきました。あなたの命に背いたこともありません。それでも、お父様は子ヤギ一匹くれたこともありませんよ。そうすれば、友達と食べたり飲んだりして陽気にできましたのに。女で財産をスッテンテンにした、あんたの息子が戻ったら、肥えた牛をつぶして肉にしちまいました。』と。すると父親はその息子に言いました『息子よ。あなたはいつでも私と一緒にいますし、私のものはすべて、あなたのものです。あなたの弟は、死んでたのに生き返ったんですよ、迷子になっていたのに、見つけられたんですよ、陽気に飲み食いしたり、悦んだりするのが当たり前じゃないか』と。」(ルカによる福音書第15章11節~32節)
この兄の方も、弟とは別の意味では「放蕩息子」ですね。弟の方は、父と一緒にいる≪いまここ≫に満足できずにしましたが、そこから「脱出」して、放蕩の限りを尽くして生きました。自分の思いを「行動化」で示した「放蕩息子」。
かたや、兄の方はどうでしよう? 兄の方も、父と一緒にいる≪いまここ≫に満足できずにいることが明らかになります。自分の生活が「お父さんのため」だと誤解しているからですし、「行動化」できた弟を妬ましく思ってんですからね。「行動化」できずに抑圧して、 ”二重性” を生きてんですから、この兄の方が重症の「放蕩息子」だと考えられますよね。
2人の「放蕩息子」を抱えた父親。カウンセラーに出会ったら、嫌味の一つでもしわれそうですが、そうじゃぁないですね、実際は。眼には見えない「心の声」に応えてんですからね。それは、弟の方の「声なき声」に応えるだけじゃぁなくて、実は、兄の方の「声なき声」にも、チャァンと応えているのが、見事なんですね。「並」のカウンセラーじゃぁ、こうはできませんからね。
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