エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

聖書の言葉: 「あわれみ」と「お祈り」

2016-11-28 04:51:07 | 聖書の言葉から

 

 

 
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 「あわれみ」と「お祈り」というクリスチャンにとって、生きるか、死ぬか、と言った大事なことが、間違っていることが少なくありません。誤解を恐れず、パレーシアに申し上げたんですけど、お腹立ちの方も少なくないことでしょう。ごめんなさいね。そのことが解かる所をご紹介しますからね。

 今宵も、本田哲郎神父様『釜ヶ崎と福音』から。

 

 

 

 

 

 わたしたちは、聖書の教えが「隣人(すなわち社会的弱者)を自分自身のように大切にしなさい」(レビ19章18節)のひとことに要約されていることを知っています(ルカ10章25-37節、ローマ13章9節、ガラテア5章14節、ヤコブ2章8節)。この教えさえ実行できたなら、救いは間違いないことも知っています(マタイ25章31-46節)。しかし、人は知識やたてまえだけでは、なかなか行動に移されるものではありません。わたしたちを行動に踏み切らせてくれるのは、「はらわたをつき動かされる」痛みの共感です。…

 「はらわたをつき動かされる」(σπλαγχνίζομαι スブランクニツォマイ)痛みの共感は、「あわれみ」とはちがいます。「あわれみ」は、こちら側の優位性、安全性が前提になっていることが多く、しばしば軽蔑の思いが潜んでいるものです。路上生活を余儀なくされている人を見て「あわれ」に思う人は少なくありませんが、なかなか行動にむすびつきません。何かしたとしても、「ほどこし」のようなことになってしまいます。

 「あわれみ」は目にしている苦しみに同情するにとどまり「痛みの共感」は苦しみの原因を取り除く行動に向かわせる、と言えそうです。

 

 

 

 

 

 「あわれみ」の人は、日曜に教会で、「○○して下さい」などとお祈りをして、後は神様まかせ…。お祈りは、自分の願いを話すことと誤解しているフシがありますね。月曜からは、いつもと変わらない毎日です。「クリスマス献金くらいしている!」という声が…?

 ところが、「はらわたをつき動かされる」人は、そんなわけにはまいりません。お祈りは、「神さま、お話ください」(サムエル上3章10節)と、神様の声を聴くことになります。そして、月曜日からも、その声に従う毎日です

 どちらにするのか? は、あなた次第。

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