「明るい献身」と「善意の暴力」「自分の足で立つ」と「楽しい献身」 積み木を解釈する着眼点:その子ならではの要素 ロバートの作品の紹介が終わりました。その中心は挿絵の通り、ス......
こんばんは。gooブログが、メンテナンスであったために、更新が早朝、という訳にはいかなくなりました。それはそれで、またいいものですね。夕方にチャァンと、更新の時間が用意されている不思議。
今宵は、関根正雄先生の言葉に学びます(『古代イスラエルの思想』より)。
私は青年時代に内村鑑三、塚本虎二両先生に就き、そこで聖書に接した。聖書に接したということは、生きた神のリアリティにふれたという意味である。
「聖書に接した」と言う言葉。ありふれた言葉でしょ。聖書に接する、ということは「生きた神のリアリティにふれた」という意味になったら、どんなに素敵なことでしょうか? でも、「生きた神のリアリティ」とは何でしょうか? 「生きた神のリアリティ」にふれたら、人はどうなるのでしょうか?
「生きるはキリスト」ということになると私は感じています。
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