「アッバ」(父ちゃん)には、親しみがあんですね。
p352下から2行目から。
アッバを父親の(あるいは、親の、と私は言いたいんですが)行動と見るために、私どもは、最後に、≪見失ったものが見つかる≫物語の譬えをいくつか見なくちゃぁ、いけません。すでに申し上げてきましたように、私どもの形式批評の立場から見れば、譬えはどれも「本物」であると申し上げることはできません。また、「ガリラヤ人」と言う呼び名は、譬えが福音の中でなくてもならないものと思えるという意味以外でも、イエスの初期の話の宝に元々あったはずだ、と確信をもって申し上げることもできません。次は短い譬えですか(それはQ資料に遡ります)、この譬えをみれば、この譬えが「起きた」場面をもう一度思い起せます。
≪見失かったものが見つかる≫物語。ルカによる福音書15章には、それが3つ並んであります。有名な「一匹の迷える子羊」の話、「なくした銀貨」の話、そして、これも有名な「放蕩息子の話」です。
お財布でも、大したお金が入っていないお財布でも、いったんなくしたものが見つかれば、「嬉しい」って感じがします。ボールペンだって、なくしたな、と思っていたものが、「あっ、こんなとこにあった」と見付かれば、結構嬉しい。
なくしたものが「自分自身」だったなら? どれだけ嬉しいのか? どれだけ幸せをかんじるのか? 想像できないくらいですね。
もしそれができたら、真黒黒の時代は、完全に過ぎ去り、日はすでに登ってま~す。
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