ジェームズ・ヒルマンにとって、聴くことと祈り 改訂版ポスト3.11の視点で見た、蘇える内村鑑三 内村鑑三といえば、堅いキリスト教の中でも、ことさらお堅い「無教会」(無教会キリスト者)の元祖。お堅い......
聖書でも、翻訳が随分「間違っている」って、思いませんか? そして、正確に知ると、なんだか、新鮮な気持ちになりませんか?
怒り。昔から、「怒っちゃ、ダメでしょ」と言われる場合も多くないですか?
本田哲郎神父様『釜ヶ崎と福音』から。
「怒ることは心の狭さの現れではないか、罪ではないか」…
「平和を願うはずのキリスト者が怒りで心を乱してどうするのか」…と、社会人としての、キリスト者としての教養が意義を申し立てる訳です。…
痛みの共感と同時に自分のうちに怒りが湧き上がってくるのを知るとき、キリストに従おうとするものとして、そこに霊性上の深刻な危機を感じるのです。
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危機を乗り越えるいちばんいい方法は、聖書がしばしば語られる「神の怒り」「キリストの怒り」の場面を、目をそらさずにていねいに見つめてみることです。その結果、「怒り」が霊性上大事なはたらきをするものであることがわかってきます。…
イエスはエルサレムの神殿の境内で、供え物用に牛や羊や鳩を売っている人たちや、献金用の両替をする商人たちを見て、貧しい人たちに肩身の狭い思いをしいるこのような宗教上の制度に怒りを覚え、「縄でむちを作り、羊も牛もすべて神殿から追いはらい、両替屋たちの金をまきちらし、台という台をひっくり返した」(ヨハネ2章13-17節、マタイ21章12-17節、マルコ11章15-19節、ルカ19章45-48節参照)
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「怒り」には二通りあるようです。自分のわがままから出る威圧的な怒りと、痛みの共感・共有から湧き上がる解放を求める怒りです。
前者は利己心と憎しみの現れであって悪であり、こういう怒りは抑え込む必要があります。しかし後者は、社会的弱者が不当に抑圧されていることへの怒りであり、解放(社会正義の実現)のはたらきに踏み込むための大切なエネルギーとなるものです。
ですから、解放のための怒りを、大いに怒ってまいりましょう。
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