大人と子どもの関係を支配する正義は、大人が身勝手にコントロールできるものではありません。しかし、この正義を大人が我が物のように支配する時、大人は子どもに抜きがたい不信を植え付けることになりますし、エリクソンかも指摘している通り、早すぎる良心と本音の溝の大きさを恥じる人間にしてしまいます。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.256の、5行目途中から。
それから、赤ちゃんのように信頼することに対する深い郷愁も植え付けることなしには済みませんでした。ルターが神学的に解決することは、あらゆる疑いが生じる前にあった信頼に魂が戻ることであるとどうじに、やむなく現世の律法と言う剣を振り回す輩に政治的に従うことにもなったのでしたが、ルターの妥協しなくてはならない達にびったと合ってたみたいです。このように分析しても、価値の力があっただとか、ルターの解決が神学的に一貫性があっただとかを説明することにはなりませんが、ルター自身が経験したことが、歴史の舞台とその次の舞台の間にある欠くことにできない繋がりや、その移り変わりを説明することになるでしょう。この繋がりこそは心理学的なものですし、このエネルギーの変化とその移り変わりの過程は、2つともに、精神分析の方法によって表にできるものです。
ルターの「恵みのみ」「信頼のみ」の宗教改革は、ここでエリクソンがハッキリ示しているように、赤ちゃんのような信頼に戻ることでした。それは、内村鑑三が、その最晩年に、自分が偉人扱いされることを嫌って、自分のことを、単なる「泣く赤子」だ、と言ったのと、同じでしょう。
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