ルターは心の中に完全な方を見つけることから、救われることを強調した、と言います。
Young Man Luther 『青年ルター』p214の第2パラグラフ5行目途中から。
ルターは、ひとりびとりに分かるような神を、定式化しようと思ったら、神の子の十字架の苦しみ、というシンボルを通してだけ、それが可能になりました。それは、ひとりびとりの実存を、後の時代に、キルケゴールの実存主義やフロイトの精神分析において探求されたのと同じ方向で、再定義するものでした。つまり、その方法とは、ひとりびとりを、自分自身がギリギリ意識できる縁まで連れていく方法です。その縁には、宗教的に、天にも昇る悦びを味わう縁も含まれます。
キリストの十字架の苦しみというシンボルは、宗教的に、天にも昇る悦びを味わう縁まで、私どもを連れて行ってくれると言いますね。何故なんでしょうか?
今後のエリクソンの読み解きを待つことにいたしましょう。
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