人生の主人公。さだまさしさんの優しい歌声で聴く「主人公」https://www.youtube.com/watch?v=rSlafdy2Lzg
のなかに、「自分の人生の中では、だれもがみな主人公」というフレーズがありますね。どなたでも、自分の人生においては、主人公は自分自身でありたい、と願うものだと思います。
では、どうすれば、自分の人生において主人公であり続けることができるのか?
問題になるのは、いつでも「受け身の体験」です。「自分は母親から、大事に育ててもらえなかった」、「アル中の父親から、いつも殴られた」「クラスメートからずっと虐められた」…。そのような「受け身の体験」には、かならず、悲しみや痛み、苦しみや寂しさといった一時的感情のみならず、繰り返し、繰り返し、同じ「受け身の体験」をすることを通して、「激しい怒り」、「殺したいと思うくらいの憎しみ」さえ伴うものです。そして、そういった気持ちは、一生涯、心密かに抱き続けることになります。
人生のおいて、困難なことや逆境に出会う時、その「受け身の体験」にベッタリと付きまとう、悲しみ、不満、寂しさ、さらには、「激しい怒り」や「殺したいくらいの憎しみ」が未解決のままでいると、直接出合った困難や逆境が、さほどではない場合でさえ、かつて体験した「受け身の体験」にくっついている「激しい怒り」などの激しい情動までが、自分の意識のコントロールができない形で、吹き出してしまう、ということがよくあるパターンです。これには、自分の意識や意志とは無関係な、自動性がありますから、「思わずそうなってました」「知らないうちにそうしていました」ということになります。
これでは、自分の人生の主人公だ、と言えません。
大事なのは、その「受け身の体験」に伴う「激しい怒り」と「殺したいと思うほどの憎しみ」のカタルシスです。その気持ちを解消しておくことが大事になります。
世間で一番多いのは「仕返し」。復讐することです。学校の勉強の復習は、学びの定着のためには必要不可欠でしょう。ところが、自分の悲しい「受け身の体験」にくっついている「激しい怒り」などは、復讐しても、解消されません。カタルシスが起きないんですね。「激しい怒り」を解消するためには、「受け身の体験」をしてくれる相手が、悦んでその体験をしてくれることが必要なのに、「復讐」されて、悦ぶ相手はいないからですね。
復讐とは違う形で、「受け身の体験」を「能動的に再体験する」ことが最も大事です。通常、子どもは「遊び」の形で、その「能動的再体験」をやります。たとえば、赤ちゃんの頃、母親が自分の眼の前からいなくなった、という「受け身の体験」。赤ちゃんにとって、眼の前から母親がいなくなることは、母親が死んだも同然。イメージを内在化できていないからですね。世界共通の「受け身の体験」です。それを解消するための遊びも世界基準。それが「イナイ・イナイ・バー」です。カクレンボや「だるまさんが転んだ」も「イナイ・イナイ・バー」の仲間。この遊びを親や友達と一緒にやることが、「受け身の体験」を「能動的に再体験する」ことに繋がります。心理臨床やカウンセリングもその遊びの延長です。
私ども、子どもと係る大人は、子どもが「受け身の体験」を「能動的に再体験する」ことを支援するために、悦んで「受け身の体験」を担当するものでありたいものですね。
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