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Toys and Resons. 『おもちゃ と 賢慮』から,p.49,20行目途中から,第2パラグラフの後半部です。
#子どもの心の時空 #滅び #復活 #復活の心の習慣
の続き。3訂版。
これはこういうことです。すなわち、私は、生きる場において主人公であるのであって、端っこにホッタラカシにされるのではありませんし、イキイキ,晴れ晴れしているのであって、自らは人に関わられずに途方に暮れていることもありませんし,自分が選んで自覚しているのであって、感覚に圧倒され、感性を奪われることもありません、なかんずく、神様と仲間から別品に選ばれ,大切にされるのであって、神様と仲間から,ホッタラカシにされ、見捨てられているのでもありません。こういったことすべての芽生えが、あの意識の朧げな始まりに必ず含まれているのです。この意識は、いかなる言葉であっても、“私”として話すようになりますし、すべての宗教において、自分は救われた主人公であるというビジョンを求めるのです。もし、顔と顔を見つめあう光は、ルネ・スピッツやジョアン・エリクソンが触れているものですが、宗教的イメージ(聖母マリアの傾けた顔と、聖母マリアが御子と一心同体になっていることから発せられるスピリットの光)を思い出させるものであるとするなら,顔と顔を見つめあう光は、信頼がひとりびとりに生まれる源と言っていいものです。あの信頼、神様の“私”によって、自分は救われた主人公であると信頼すること,これこそ、人間がカリスマのある指導者を求める,とても大事であると同時に,致命的であり続けるのです。
エリクソンのライフサイクル心理学は,“私”の展開ですが,その“私”は,聖書の神様の“私”に基づいている以上,極めてキリスト教でしょ。
その“私”は,聖母子像が示すみたいに,見つめあう2人が放つ光から生まれます。それは先日「こころの時代」(2.25, 2018)で仏教徒の井上ウィマラさんが,自分の心に一番ビッタリくるのは,カトリックのシスターからもらった聖母子像だ,と述べていたことからも,宗教を超えてきわめて普遍的な事実,普遍的な光であることがわかりますでしょ。
それは同時に,“私”が聖書の神様の“私”から離れる時(それを,「的外れ」と呼びます)には,ヒットラーみたいな独裁者の大津波に見舞われること(予定)になっています。
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